矢代について・第25話カーテンの隙間の意味

「囀る鳥は羽ばたかない」


考察その2
第47話までの矢代について


※2022年3月にTwitterに投稿したものを加筆・修正して再掲しています。
※誰の考察も参考にしておりません。もし似通った解釈があった場合はご容赦下さい。


「囀る鳥は羽ばたかない」の記念すべき第1話冒頭に「俺は、俺自身も傍観者にすることで俺を保ってきた」とある。
"傍観者"
この一言で矢代の生き方がはじめから説明されている。
侮辱されても意に介さず、常に冷静で飄々としていられたのは、心と体を切り離し、どこか他人事として生きていたからこそ。
百目鬼に出会わなければ、そのままでも良かったのかもしれない。
しかし、百目鬼を強く求め受け入れたいなら、今までの自分を手放し、生き方を変えなければならない。
矢代にとって生き方を変えるとは、心と体を一致させ"傍観者"としてではなく"自分自身"として生きなおすことにほかならない。
そこで5巻に戻り、心=感情と体が一致する原因となった百目鬼との一夜について考えたいと思います。

百目鬼との出会いで矢代の"傍観"は徐々に崩れ始め、22・23話で勃起を確認した時に決定的になる。

ヨネダ先生は過去のインタビューで次のように述べている。
「矢代にとって百目鬼は唯一の綺麗な存在なんですよ。矢代の中には"性的なもの=汚い"という考えが潜在的にある。一中略一 そんな矢代からすると、百目鬼に対しても "あ、勃っちゃうんだお前" となる。矢代にとってそれは汚いものなんですよね。汚い自分に欲情するわけですから。」
一このBLがやばい2020年度版より一

このインタビューを念頭に置いて考えると、23話で百目鬼の勃起を知り、 「俺で興奮なんかしちゃうこいつ」に 「腹が立っている」のは "汚い俺で欲情なんかしやがって" という理由からだとわかる。
更に「そりゃおかしいだろ」 「だって 俺は 好きなんだ」 「セックスが 男とやるのが」 一そう思い込んでいた自分の歪みに気づき始めている。

百目鬼の勃起と告白がきっかけで、潜在意識の中に押し込めていた自分の感情が溢れ出してしまい、パニックに陥ったのではないだろうか。

解離していた心=感情と体が、このあたりから一致しつつあるのだと思う。

つづく24話。
矢代は百目鬼の勃起に腹を立てる一方で、性とは遠い所にいたはずの無垢な存在を、自分のせいで汚してしまった、と自責の念も抱いている。
だから「お前は綺麗だからインポになったんだ...なのに俺が」 と続く訳です。

ちなみに2人にとっての綺麗なもの汚いものとは。
矢代も百目鬼も、父親が原因で性的なトラウマを抱えている。 矢代は義父からの虐待で自分は汚いと感じ、百目鬼は自分は実父と同じではないかと恐れている。
(百目鬼は井波に「父親とそう変わんねぇな・親父と同じクズなんだよ(15・16話)」と言われちゃってます)

ともに、自分は汚れているが相手は綺麗な存在と見なしているんですね。 ゆえに、相手を自分のものにしたいという思いは素直な表現にならずに
"汚い自分が相手をものにすれば綺麗な存在を汚してしまう"→"でも自分のものにしたい"→「汚したい/百目鬼(16話)」 「綺麗なものは汚したい/矢代(34話)」 という、こじれた表現になってしまう。 ああややこしい。
方向は違えども、歪みを抱えて壊れている部分では2人は似てるんですね。
...それにしても、井波はなかなかのキーパーソンです...

さて24話にもどり。
次は百目鬼にやさしく愛撫されて
「吐きそう」になる。他にも
「向けられる性欲の中の好意に吐き気がした(10話)」
「痛いと吐き気がおさまるな(29話)」
これらの語りから推察すると、矢代にとって自傷行為としてのセックスは「やめたくてもやめられない」が、潜在的には汚いものとして嫌悪感を抱いている。
好意のある普通のセックスでは、嫌悪感が前面に出てしまい、吐き気がしてしまうのかもしれない。
あるいは「マジ惚れしたヤツ 首切ってた/七原」のセリフから、自分に向けられる恋愛感情そのものに忌避感を覚えるのかもしれない。 いずれにせよ、それらを紛らわすためにも痛みが必要だったのでしょう。

吐きそうになりながらも、百目鬼に大切に扱われ とまどいながら心を通わせていく2人。そして体中にやさしくドーメキ印をつけられて射精する。
(「したくありません」とか言いながらしちゃうんだドーメキ... 「吐いても絶対やめません」て。吐いたらやめてあげて...といった百目鬼への突っ込みは、ここでは保留にしておく。百目鬼については、いつかまた改めて考察しようと思います。)

さあここでやっとカーテンの登場です。 (私は最近気付きましたが、すでに周知のことであればお許しを。)

この24話までは、百目鬼の部屋のカーテンは完全にきっちり閉まっています。
ところが25話 射精からの「壊すな俺を」からの"挿入" 「壊しません」「絶対に」 「違う、そうじゃない」この次のページ(左上のコマ)から、カーテンがわずかに開いてるんです。

ここ!ここなんです!
ここが矢代の殻に亀裂が入った瞬間なのでは?つまり
[カーテン]→自分を守っていた殻(=痛いのが好きという認知の歪み)の象徴
[カーテンの隙間]→殻の亀裂
を表しているんじゃないかと。 (カーテンの隙間は、義父からの虐待の場面でも見受けられる)

初めて好きな人と身体を重ね、優しく大切に扱われ、痛さで吐き気を紛らわさなくても気持ち良く満たされたその瞬間に、気付いてしまう...

「ああ、どうして今...」

(矢代も読者もどん底に突き落とされた瞬間でしたね...)
殻の亀裂から見えてしまったのは、自分自身を偽り目を背けてきた傷。 「誰かに」無理やりねじ曲げられ歪められていた姿。
尊厳を踏みにじられていた心と体の本当の痛み。 汚されていた自分(=汚い自分)
一襖の向こうの母は助けてはくれない一

27話。涙が流れている。
「見るな。これ以上俺を...」
これは"見るな。これ以上、汚れている俺を..." という、矢代の悲痛な声に聞こえる。
(この時の矢代の"見るな"は、2話の葵ちゃんの"ミナイデ"と通じるものがある)

47話を読んだ今なら、この瞬間に矢代を守っていた殻は完全に壊れ、長い苦しみが始まったことが理解される。
(殻の亀裂を、カーテンの隙間と襖の隙間、虐待の場面にまで重ねて表現した先生の神業!もう泣くしかありません)

翌朝。両手で顔を覆いうずくまっている矢代。 顔を上げた矢代のアップ。
その表情、虚ろな目を見れば、矢代にとって心の傷と真正面から向き合うのが、どれほどの苦痛なのかと胸が締め付けられる。
たとえそれが再生への道だとしても。

「誰のせいにもしていない」
「俺の人生は誰かのせいであってはならない」
「全部受け入れて生きてきた」(8話)

この矢代の大前提が根底から覆され、自分が崩壊してしまうかもしれない。
百目鬼を「受け入れ、俺という人間を手放す」とはそういうことなのだ。
平田に首を絞められ 「ようやく俺は俺を終わらせることができる」 と死を願う程の苦しみを、この時の百目鬼は理解出来なかっただろう。

この後矢代は百目鬼を手酷く捨てている。
捨て方の是非はともかく、自分を守るためには仕方のない選択だったのだろうな。

事実としては突き放しているが、矢代の気持ちとしては、諦めたもの・失なったもの、という風になるのだろう。


ここで、物語のひとつの区切りとなった平田との場面について考えてみる。

33話、矢代が痛み止めの注射をうつ場面で、唐突に「末期ガンの終末医療」という言葉が出てくる。この言葉からイメージするのは"死"
平田に首を絞められ死にかけた矢代は、駆けつけた百目鬼に助けられている。

これは、平田によってそれまでの矢代は死に、百目鬼によって再生するという、死と再生の象徴としてとらえる事も出来る。
(矢代は以前から葵ちゃんを羨んでいたが、図らずも葵ちゃんと同じ立場に立てた事になる。)
右眼は死と再生の代償なのか、それとも、百目鬼の小指と対で、欠落を抱えた者同士の意味なのか、今はまだわからない。

4年前、百目鬼との一夜で、解離していた心=感情と体は確かに一致した。 これは再生への第一歩と言える。 ではなぜ矢代は4年の間、ここまでボロボロの状態だったのか。

それは、自らが望んで再生を決心した訳ではないからだ、と思う。
偶発的に百目鬼に変えられてしまっただけであって、自分から変わりたいと願った訳ではない。
自らが変わりたいと願い努力しなければ、変われるはずはない。

ましてや、はじめから生きる意欲もなく、自己肯定感がマイナスの矢代が、心と体を一致させてしまえば、つらい以外の何者でもないんじゃないか。

百目鬼を捨てたものの元の"傍観者"には戻れず、 本当の心と体の痛みを抱え、汚れた自分をごまかす事も出来ない。(本当は汚くないのに...)
汚い自分は誰かに大事にされる価値はなく、自分を大事にする意味も見いだせない。
同類の井波に体を投げ出し痛みだけを求め、百目鬼を失なった世界で
「どうでもよくて」
「どうにもならない」
そんな日々を送るのは、当然といえば当然のようにも思える。
とても悲しいことだけれど。

「お前にやるものなんか、俺の体で充分だろ(47話)」
この投げやりな言葉に、矢代の底知れない闇が感じられ、心に重く響く。

一方で、こんな状態であっても、カジノ経営者として成功するほどの強い側面も持っている。 この強さがあったからこそ、今まで生き延びてこられたのだろうな。

多くの矛盾と複雑さを内包した、もろくて強い矢代。

深い孤独と絶望の日々を過ごし、百目鬼と再会してしまった直後は、動揺のあまり、本当に周りの景色が歪んで見えたのだろう。(40話)
百目鬼と再会した後の矢代はすっかり情緒不安定。 動揺し、期待し、拗ね、余裕がなく 「距離感を失ってる」
「明白に」
「明らかに」
「俺がおかしい」と自分を見失い
「笑える」と自嘲し、
自分の感情に振り回され、自ら捨てたくせに百目鬼の態度に傷ついている勝手な矢代。

淀みきっていた矢代の感情が、百目鬼の登場で、激しく揺れ動きはじめている。
絶望の4年間を経て、まさに今、"傍観者"としてではなく"自分自身"として、不器用ながらも生きはじめているのではないだろうか。

これから先、自己を肯定し、尚且つ大事にするためには、まだいくつもの段階を踏まなければならないだろう。 どちらかがまた、死ぬほどの目にあうのかもしれない。
それでも、最後には必ず2人が幸せになれると信じ、一読者としてずっと見守っていきたいと思う。
...矢代を頼んだよ、百目鬼。

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