【LAP8期】芸術単元復習


久しぶりの投稿です🌱
忘れないうちにと思い、講義の順番が前後しますが復習記事を書いたので共有します!


古賀さんのお話

・シリコンバレーのVCの中でもトップベンチャーの創業者2人がフォーラムの九州台湾クリエイティブウィークというイベントに登壇してくれた。ユニコーンを多数輩出している。一人でもいいからすごいと思う人を九州から贈呈してほしい。衝撃的な出会いだった。自分が見たことのない景色を見ることができるのはありがたいが、行き過ぎた資本主義に対する疑問と折り合えるだろうかという気持ちもある。

・IBE(大学教授との研究会)で基調講演をした。LAPを紹介したら反響がすごかった。高等教育の場をどう考えるか、というテーマだった。小中高大を通して動機づけに失敗している。学びに来ている側の当事者意識が薄い。目標があって、目標を達成するための手段として先生・講義がある、という形では現状ない。「五感を研ぎ澄ます」ことを忘れてしまっているようだ。長崎県立大学では、離島に県立大学の1年生をISに連れていく。五感を刺激されてより良いアウトプットが出ているようだ。

導入


・人生は「なんとかなる」というスタンスでやっている。
・美しさは数値では測れない
→単純ではない自分たちの価値観を問いかけていくのが「美学」であり、「正解のない問いへの挑戦」である。
・自分たちが常識・正解に縛られているのか、抜け出すのがいかに難しいのか

事前課題の発表

Aチーム

①マンマ・ミーア!(客も入る)
②呪術廻戦2期OP(映像・音楽・考察できる点)
③久石譲のSummer
④ドラゴンクエスト
⑤夏秋草図屏風(酒井抱一)
⑥フェルメールの絵画
⑦東京大学(空間)
〜芸術とは何か?〜
・心を動かすエネルギーがある
・芸術は「境界」に宿る

Bチーム

①ずっと真夜中でいいのに。の世界観
ちょっと暗め。しゃもじを使ってライブを作る独自性。サイエンスアート。
歌詞が繊細で現代的で前衛的。アーティスト名っぽくない点も。言い回しが独特。
→音楽はみんなで作り上げられる。
②クレヨンしんちゃん
③いろはうた「ねむりさまし」
国語も作品ではないか・形式も見方によって変わる。
アートは問題提起で、デザインは問題解決 これはどっち?両方?
アートはコミュニケーション?
④パレルの部屋

Cチーム

①太宰治「斜陽」
本だと自分のペースで読める。再度見返すことができるという形式上の特徴。
女言葉が顕著に現れている。女性が引き寄せられる魅力がある。

②海外ドラマ
コラムニストの主人公が分析する形で物語が進む。
憧れと共感どちらも感じられる。
日常生活を要約するコラムで締めくくられる終わり方が芸術点が高い。

③ジブリ
文明VS自然
不思議さが見たくなる。(怖さまではない)
壮大な音楽・テーマ設定

Dチーム

⚫︎新しい学校のリーダーズ「オトナブルー」
・音楽の形式:耳に残りやすい・昭和の歌謡曲のメロディー(松田聖子を想起させる)
・日本のステレオタイプな要素が魅力的に映る
・令和の時代に昭和館をうまく取り入れた
・四人の個性がバラバラで身近に感じられる設定
・バンドワゴン効果(SNSによって他の人の評価が影響している)

山内さんの総括


・自分の「推し」を布教する時の感じと、今回の発表の感じが違う?とか考えてもらえたら嬉しい

⚫︎Aチーム
・主観や客観に分けれるものではない。
・「境界に宿る」鋭い
・圧倒的に数字で表せられない価値がある

⚫︎Bチーム
・「ずとまよ」:かけがえのない存在になっている
・「ねむりさまし」:作品と読んでOK?
モダンデザイン・・・社会運動のような形で考えられたもの(例:システムキッチン)

⚫︎Cチーム
・太宰治の「女言葉」はまさに「形式」そのもの
・「残穢」は映像化されたけど、よっぽど表現が怖い小説の方が怖い

⚫︎Dチーム
・音楽がいかに受容しているのか、局面の問題→TikTok
・口コミ的な評価が芸術的な評価に影響している

テーマ①:美学について


・近代は「なんで?」という疑問が生まれた時代
 ピラミッド型のヒエラルキー社会
 トップの偉い人が言ったことが正しい社会
 →音声メディアは話す側にとって都合がいい。印刷機ができて、文字情報でいつでも都合良い時に冷静に読めるようになった。
 →自分たちにとって正しさって何だろうか、を考え始めた。
・認識論(科学):真偽を考える学(例:試験)
・倫理学:善悪を考える学(例:走れメロス、戻ったら死ぬってわかってても戻る)
・美学:美醜(面白いか面白くないか)
 自分<たち>にとっての価値や意識の「普遍」を見出そうとする
 主観的だけど果たして個別バラバラなのか?
・内容主義:誰が何を表現しているのか?が問題になる。
⇔形式主義:どう描いているか?が問題になる。アーティスト側が主語になる。
A:「ゴッホの絵、めっちゃいいんだよね〜」
B:「なんで?」
A:「だってゴッホが描いてるから(内容主義)」↔︎「〇〇な表現が素敵だから(形式主義)」

・「反省的判断」byカント:既存に当てはまるかどうかはともかく、どこに当てはまるのかを考える判断力(よくわからんアートを見た時の感覚)。将来的に共有できるようなカテゴリーがあると感じている、他のみんなにも当てはまるはずだ、と感じざるを得ない自律的な判断(例:個人的な好き嫌いに関わらず、キムタクは美形だということはみんなの中で納得しているのではないか、という感覚)
⇔「規定的判断」:どの枠組みに当てはまるかを考える判断力

例)ハンナ・アーレント:こういう施策がいいと思う、という思いは完全に個人的な意見ではなく、他の誰かもきっと理解してくれるのではないか、という感覚で政治を行うべきだ。
→主観と客観がはっきりわかれていない。
 「個人の感想」「何事も数字で表せる」というのは狭い感覚
→「反省的判断」は、SNSの発達によってさらに高まっているのではないか

テーマ②:「アレゴリー」のまなざし

・象徴(シンボル):マジョリティーの「いい感じ」
(例)「幸せな家族」というキャッチコピーのポスターに、異性の両親に子供二人くらいが描かれているイメージ
⇔アレゴリーの感覚:ネガティブな希望、「マイノリティ」の価値観からのズレ
(例)両親が離婚している人、子供がほしくてもできない人
   愛のアレゴリー:本来的な「愛」の形とは外れたものを含めている(嫉妬、欺瞞)
   →目を逸らしていることってあるよね?見せないようにしている視点ってあるよ     ね?と突いていく、モヤモヤさせるのが「アレゴリー」のまなざし
   →アレゴリーのまなざしが完全になくなれば、社会は変革していかない。ジェ      ンダー単元のときに美幸さんがおっしゃっていた「モヤモヤは悪いものではな     い」というのに似ている。モヤモヤって気分良いものではないけど、間違いなく    成長の糧になる。
・「芸術作品はコミュニケーション」という話題もあったが、作者の意図が作品に見事に表現されているものはむしろ芸術作品としての価値が低いかもしれない。ディスコミュニケーションこそ大事では?
・「希望なき人々のためにのみ、希望は私たちに与えられる」byベンヤミン
・誰でも何かしらのマイノリティ、誰しもがマイノリティの当事者性をもっている。
→グラデーションだよね。
・情報に価値がある
 どんな情報を持っているかによって「持てる人・持てない人」が決まる。
・ディシプリン:命令の通りに体が動くように学校教育などを通して律されている。

Q 事前課題で対象とした作品等のうちに、
①「アレゴリー」的な要素・視点があるか
②あるとしたら、それは作品のどんな「形式」に認められるのか
③なぜそのように解釈できるのか

⚫︎ドラマ「いちばんすきな花」
・女の子らしく育てられることを快いことだと感じない登場人物
・二人組を作れるのが社会で当たり前のことだとされていることに対するアンチテーゼ
・「ポジティブ名言」への批判
→どれも元々個人的に思っている人が多かったけどメディアを通して言われることはなかったような内容を入れ込んでいる。しかし、社会現象になっているのは、決して悲劇的ではなくあくまでも「喜劇」という位置付けだから。(脚本家生方さん談)これは太宰治と同じかもしれない。形式が「皮肉」。アレゴリー的。
・「正しい・間違っている」という別の視点から「好き・嫌い」を否定されるということへの批判も描かれている。

⚫︎「ねむりさまし」
誰にとっての価値なのか?

⚫︎東京大学
東京大学はもともと立派な権威を示していたけど、大学が就活訓練校みたいになっている中で、3週まわって象徴ではなくアレゴリーの対象になって、東大が世の中から外れた人が真摯に勉強に励む環境になっている
→対象がアレゴリーかどうかではなく、対象に対してアレゴリーのまなざしを向けている。

⚫︎ずとまよ
・爽快で軽快なメロディーと対照的な生きづらさにフォーカスした歌詞
→自分が感じていたモヤモヤを言語化してくれている。あえてポップな形式をとっているのはなぜなのか
(例)きらきら:のしあがりたいけど上がれない自分の劣等感を表している

⚫︎太宰治の「斜陽」
・大多数の意見に媚びないことがアレゴリー
・当時は道から外れたあり方ではあったけれど、決して悲劇に振り切っていない
・小説読んでいるのに手紙を読んでいるような表現
・自分の独特の表現を貫いている様子がアレゴリー?

⚫︎ドラマ
・役としての関係性と、実際の関係性が異なるのが面白い
(例)
・初代ジョーカーの俳優が、役に染まりすぎて病んで死んでしまった
・仲良しの役に入るために関係性を深めるように気をつけている俳優たち

⚫︎東京ラブストーリー(リメイク版)
・社会通念性が描かれている。(看護系の人は給与が安くてきつい、東京の人はバリバリ働く)
→平成版と令和版を比較すると、恋愛スタイルが対照的なので、お互いがアレゴリーに映ることはあるかもしれない。(いなでぃーさん)

⚫︎酒井抱一の絵画
狩野派みたいなキンキラキンなイメージとは打って変わって、さっぱりした感じが、自分もこういうふうになりたい、という憧れに繋がった。今までのキンキラキンがいい、みたいな象徴に対して違和感を覚えた貴重な美的経験。まなざしがアレゴリー。

⚫︎久石譲「Summer」
・アレゴリーの要素があるかどうかわからなかった。
・夏のイメージ「ウキウキ・わくわく・明るい」
→夏の終わりを感じさせる。素敵なんだけど苦しい気持ちになる。
→メロディーの旋律という「形式」って、人の感情に普遍的に訴えかけているように感じる。なんとなく切ないとか、なんとなく苦しい、とか。(きゃりーぱみゅぱみゅの「ファッションモンスター」とか)とても恣意的。

◉形式主義と内容主義
・形式主義・・・受け取った側が全て
・内容主義・・・発信側が全て
(例)「おじさん構文」・・・どんなに良いことを言っていても、受け取り手が生理的に受け付けなかった場合、下心を感じてしまう。

テーマ③:虚構

受け取り側の姿勢によって問題の所在が変わる。
①事実かどうかを大事にしている受け取り手:フィクションと明記しなかった発信者に問題があるとされるが、実際はどうか?
②本を読んでどう感じるかを大事にしている受け取り手:フィクションかどうかは関係なく、問題の所在はなし

・水俣病:社会の側が当時悪いとした共通認識がかなり強かった?
→水俣病患者は元々認められなかった。社会的な条件が違うというのは面白い指摘。
・原発問題:そのまま動かした方がいいVS動かさない方がいい→共通認識がなかったから批判に繋がった
・創作する人がどれほど関与しているかどうか。水俣病患者はそもそも話せない一方で原発被害者は話せる人たちだったけど、作者の創作の割合が大きかったことが批判に繋がった?
→「共感しているかどうか」が大事だと思ったのはなぜ?
受け手側が共感できる状態かどうか。読者は共感していたけど、エビデンスないんかーいとなっている状況。

・フィクションですよ、としっかり示せばよかったのではないか。
・受け手側の反応の方が怖い。
→読んでない人すら報道を見ただけで過剰に反応している可能性はある。ネットやニュースの情報を常に正しいと判断してしまっている受け手側のリテラシーの問題ではないか。
・作家Aが最前線で頑張っていれば良いのか?叩かれなかったのか?
・果たして受け手の共感を得る作品でないと作らないといけないのか。
・事柄のスケールの大きさは関係ある?
・受け取り側が、発信する権利があるかどうかを見極めている時代。

・誰が書いているかではなく、どのように描かれているか
→感銘を受けたのであれば、事実かどうかとかは関係ないはずだが、現実的には、誰がそれを書いたのかが密接に影響を与えている。内容主義的なものに寄っている。内容主義は○×で判断される。

忘れないでほしいこと

・「アレゴリーのまなざし」って概念化された途端に「アレゴリーのまなざし」ではなくなる。なんとなくこうかも!と思っても、やっぱり違うかもしれない、という感覚が大事。
・非常にアレゴリー的なまなざしを排除して、みんなが同じ方向を向くようにシンボリックな表現を生み出そうとした戦争の時代があった。体制側・情報発信側にとって都合の良い価値観を作っている。
・みんなにとって大事とされる感覚に巻き込まれる感じ。一体感はとてつもない快感。他者を排除してでも得たいという感覚が危ない。ロシア・ウクライナにはアレゴリーの感覚が全くない。多少なりとも感じた違和感を絶対に残しておいてほしい。なんで?を突き詰めてほしい。
・形式によって感銘を受けた自分自身の感覚をいかに大事にするか
→さむらごうじさんが作ったとされた曲が実は新垣さんが作ったものだった、という事実に対して、「正しい・正しくない」という別の視点によって、感銘を受けたという自分の感覚を否定するような世の中になっている。自分の感覚に軸足をもつあり方を大事にしてほしい。
→「面白いかどうか」という世界が「正しい・正しくない」の世界に負けないでほしい。

考えたこと・感じたこと

・日頃感じているモヤモヤが「アレゴリー」で、これをなかったことにせずに持ち続ける、考え続けることが、より良い社会を創っていくための礎になるのではないか。
・「多様性」が叫ばれ、だいぶ「アレゴリー」的な視点が大事にされるようになってきたが、どこからがマジョリティーでどこからがマイノリティーなのかも曖昧だから、今後象徴とアレゴリーの境目もなくなっていくのか、まだステレオタイプはあるから当分先の話なのだろうか、と考えさせられた。
・SNSによって「反省的判断」がしやすくなったので、理解を得られやすくなった反面、虚構の話でもあったように炎上や批判にも晒されやすくなっているという側面もあるから、SNSに頼りすぎず、自分の価値観に自信を持つことが大前提だと思う。

芸術単元の講義を聞くのは今回で3回目だが、毎回自分自身の考え方、周りの考え方が変わるのでとても面白い。さらに深めていきたいところだ。

(まえこ)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?