虚構的な遊び

人を「愛する」には、相手からも「愛される」ことが必要だ。しかし、アイドルから、ファンが愛されることはないから、ファンがアイドルを愛してしまったら、自我は崩壊してしまう。だから、ファンはアイドルを「推す」。

自らの理想や願望が「人形(ひとがた)」になったもの(=アイドル)を、ファンは主体的に選びとり、愛情を注ぐ。その姿を見て声や歌を聴き、言葉に触れるとき、内から湧き上がってくる愛情は、どこまでも一方的なものであり、自分の中だけで循環し続ける。

「推し」を自分の人生の理想として崇拝し、同じように考え、行動することに喜びを見出すこと。「推し」の人気を高めるため、自分にできることをしなければいけないという責任感を抱くこと。そんな「推し活」を通じて、ファンは、「推し」の全てを「我がこと」のように感じるようになる。これは、双方が主体となる通常の恋愛とは異なり、常にファンが主体となり,アイドルは客体となる「虚構的な遊び」だ。

自らの愛を言葉や絵で表現し他者に共有する中で、アイドルに対して心理的な愛着を持つ人間が、自分だけではないことを知り、仲間意識が芽生えると、「我が『推し』」という個人的感情は、「我らが『推し』」という集団的感情に変化していく。個々のファンの愛情が、仲間との相互作用、相乗作用により、その総和以上の何かを生みだしているように錯覚される。そして、「推し」に対する責任感と忠誠心をゆるやかに共有する集団が生まれ、「推し」の幸せを実現するための労力や資金の投入が集団的に行われるようになると、そこに帰属しているという関係性に対しても、人は喜びを感じるようになる。

しかし、この「虚構的な遊び」は、「推し」が、誰かを「特別に」愛した事実が発覚した瞬間に、崩壊してしまう。アイドルが、「誰かを特別に愛した」こと自体が問題なのではない。その事実を、アイドルが隠し通せなかったことに、ファンは悲しみ苦しむのだ。

でも、その悲しむファンの姿は、見る人によっては、ずいぶんと幼稚なものに感じられるのではないだろうか。お人形遊びの途中で、急に、お人形を取り上げられて泣き喚く子供と、何が違うのだろうか、と。

アイドル自身に憎悪をぶつけるのか。
アイドルに特別に愛されたその人に憎悪をぶつけるのか。
それとも、何も見なかったことにして、お人形遊びを続けるのか。

私は、どれも嫌だと思った。
だから、お人形遊びをやめることにした。
自分が壊れないよう、おそるおそるであるが、思い切って、その人を愛してみることにした。
愛着の対象が、主体として、人間として、そこに存在していることを意識して、向き合ってみると、私自身の生き方が、少しだけ変わってきた。お人形遊びをしていた頃よりも、日々の彩りは、明らかに増えた。

人を「愛する」には、相手からも「愛される」ことが必要だと思っていたけれど、実はそれも思い込みだったのかもしれない。
愛し方にも、色んな形がある。
姫様の元に馳せ参じ、恥も外聞もなく必死に自己アピールして、なんとか恵んでもらったささやかな思い出を大事に抱きしめて帰り、宝箱にしまっておく。時々取り出して眺めたり、そっと指先で触れてみたりしながら、一人ひっそりと微笑む。そんな愛し方があってもいい。
夜が明けて、水平線から朝日が顔を見せるような愛し方もあるだろう。大好きなあなたが目覚めて、カーテンを開けたとき、暑すぎず寒すぎず、ついまどろんで二度寝してしまうような、柔らかな日差しのひとすじになれたらいいなと思いながら、インターネットの海に、今日も思いを乗せた言葉を流してみる。実際、あなたに届くかどうかはわからないけれど、宛先署名付きのお手紙は、やっぱり重たいと思うから、毎日の愛し方は、日々に溶け込み、見逃してしまうくらいのものがいいだろう。もし、あなたの目に触れることがあったとしても、受け流してもらえる程度の軽やかさを持ち合わせておきたい。どうしても、愛し方がじっとりと重たくなりがちな性分ではあるけれども、あなたが「ほんと、馬鹿ね」って言って、ふふッと笑ってくれるような言葉を流せたらいいな。

私がいて、君がいる。
祭りの後は少し淋しいけれど
ひとつひとつ、山越え行くんだ。

※以下の論考を読み、我が身に引きつけて考えたことをメモしたもの。ほぼ「翻案」かも。

※最後の3行は、このnoteを書いている時に、ふと頭の中に思い浮かんだフレーズ。おそらく中学生が主人公と思われる歌詞なんか持ち出して、恥ずかしいけれども。