身を焦がして語れ

永田敬介の絶望ラジオ、好きな回の一つ。

リスナーの絶望レターを受けての永田さんの怒り。フレンドリーな関係性があるわけでもないのに、人の人生に好奇心でズケズケと介入してくる近所のおばさんがムカつくという話。共感するし何度聞いても救われる。

私も同様の経験をしたことがある。
13歳のときだ。父が高熱で意識混濁状態となり救急車で運ばれたことがあった。隣の家の窓が少し開いていた。その隙間から父が担架で運ばれる様を隣の家のおばさんが見ていた。父と母を乗せた救急車が我が家の前を走り去って、私が玄関を閉めてまもなく、チャイムが鳴った。隣の家のおばさんだった。「お母さんもお父さんもいなくて大変だろうから今晩はうちに来なさい」と言う彼女の目は下品な好奇心に満ちていた。普段から挨拶するくらいで、大して親しくしているわけでもないのに、急に距離詰めてくんなと非常に不快な気持ちになった。「大丈夫ですので。」と何回言っても「遠慮しないでいいのよ。」とか「妹さんもいるし。」とか、本当にしつこい。まだ小学校低学年だった妹は不安そうに私にしがみついていた。結局「明日、中間テストなんです。勉強したいんで帰ってもらっていいですか?」という可愛くない台詞を叩きつけて、そのおばさんを帰らせた。
妹を寝かしつけてからも、気が立っていた私は眠れず、明け方に母がタクシーで帰ってくるまで勉強し続けた。帰ってきた母に「お父さんは…」と話しかけた途端、話しかけるなと怒鳴られた。理不尽すぎる。私は娘なんだから聞く権利はあるだろうに。鬼のような顔をした母に、妹は可愛らしくまとわりついて、よしよしとされていた。妹はよく分かっている。役割分担だ。

「傍観者の人生に奴ら甘んじているからさ。奴から何かできんのか?奴がプレイヤー側だっていう自覚を、この何十年間ですり減らして無くなってるんだ。この地球のプレイヤー側だっていう。完璧に死んでるから、自分の情報を出すという発想がゼロになってるわけです。こいつは、聞くだけで終わっているっていう。そうやってすり減らして、いくわけだ。それでいい人生だったって、何があっても、いい人生だったって言うんだろうなどうせ。そこまで決めうちなんだろうお前の人生はどうせ。思うわけで。こいつら、さ。だから、なんか尖った趣味をさ、持てや。と思うわけで。」

自分の中に発信できる情報がないから、単なるエピソードづくりのために他人に絡む人はどこにでもいる。永田さんの怒りは、Twitterで、いっちょかみする人たちにも容赦なく向けられている。

永田さんはじめ、好きな芸人さんに関する私自身のSNSやこの noteでの言及も、ひょっとしたら、いっちょかみの一群に連なるものになるかもしれない。そこは正直、いつも不安がある。

いつも外野から見ているだけで、自分と永田さんの間に何か関係性があるわけでもないのに、「応援」の口実のもと、ある種の身内的なスタンスから何かを語ることは、非常に差し出がましい行為であるとも思う。つい、いち消費者として、永田さんに需要がありまくることを、事務所はじめ業界関係者に少しでもたくさん知らしめたいという欲が湧いてしまって抗えない。

でも、ここは、ゼロヒャクではなく、程度問題なので、少し冷静に、自分を俯瞰することで、程よい加減を見つけたいと思っている。直接、迷惑なこと、やめてほしいこと、やってほしいことが聞けるのなら、安心できるのだけれど、それが聞けないのが、ファンと芸能人の距離感だ。諦めるしかない。己の読解力と想像力がためされる。

2023年の初めに「今年は書く年にしよう」と決めて、このnoteに無選別に自分の中にあるものや生まれたものを言葉にして記してきた。誰かから見られることに怯えず、覚悟をもって言葉を磨こうと決めた。

そんな今の私にとって、永田さんの「身を焦がして語れ。地球のプレイヤーたれ。」という言葉は杖となって、歩みを支えてくれるものだ。永田さんの好きなところはたくさんあるけれど、この言葉への向き合い方への尊敬が、全ての好きの根底にある気がしている。