見出し画像

エヴァンゲリオン第壱話 使徒、襲来 第弐話 見知らぬ、天井


2006年に見た感想の再掲です。翌年新劇場版になるとは知らないでDVDを見ていた。まだ学生だった。

来週に新劇場版が終わるらしいので、過去の感想を振り返ってみる。新しく発見したところを描くのは面倒。


 エヴァンゲリオンは不思議の海のナディアから5年、Vガンダムから2年という1995年に位置する作品。
 82年3月末生まれで、テレビ東京系が映らず、ビデオ派でオンエアが終了してからビデオで見始めた私にとっては、1996年、14歳、中学3年生、碇シンジとシンクロする直撃世代である。そして、私が決定的にオタクになろう!と決意するに至った作品である。私が初めて理解し楽しめたアニメである。多分。
 ナディアは小学校低学年であり、良い作品で楽しみに見ていたが、所詮幼児であった。Vガンダムはシャクティと同じ歳に全部見た。しかし今、見返して新鮮な発見をつらつら書いている事からも分かるように、全く理解できていなかった。
 ですが、中学3年生です。さすがに私も自我と思考が確立されてきた頃です。(まあ、それでも今から思えば全然イタイあれだったわけですが。そして今も。)この頃の3年間、小学6年生と中学3年生の間は無限とも思える隔たりがある感覚だ。この年代は人格も体格も大きく変わる頃であり、思い返せば、まるで他人の人生のようだ。
 しかし、エヴァンゲリオンから24歳までの10年間は地続きであると感じられる。あっという間である。ほんと、この間何をしていたんだろう。全然ニートだし。うぅ・・・・・・・。

サントラ、林原めぐみのCD、3回くらいダビングされたエアチェックのビデオ、謎本は1冊、天使辞典、等を買い揃えたけども、絵コンテと原画集と声優のポエム付きの文庫、それと同人誌には手を伸ばさないような、そんなオフィシャル主義の中学生。
地域の図書館で小学5年生から高校2年生までアニメージュとホビージャパンを借りている中学生。むかしから金は無かった。
アニメージュを借りていても、決定的にヲタクになったのはエヴァンゲリオンからだった。セーラームーンやレイアースは親に恥ずかしくて見てなかったし。本気で損したと思う。


あの頃から、僕はどう変わったんだろう?そう思いながら見た。
「気持ち悪い…」
そう思うと言う事は、僕が大人になって分別がついたからだろうか?NEETになって暗黒にまみれたからだろうか?富野由悠季のにわか信者になったからだろうか?
いや、丁寧なつくりで、トミノアニメほどじゃないが(!?)演出密度も濃いし、1,2話の時点ではとっても面白い怪獣アニメなんだが・・・。オチを分かった上で、そこに向かって突き進んで行くんだと思えば、…気持ち悪い。
自分でも一番以外だったのは、あの頃一番好きなキャラクターだった碇ユイことエヴァンゲリオン初号機が不愉快になっていたことだ。
エヴァンゲリオン初号機。あのマッシブな鬼の形相。機能性のあるディテールを積み重ねた反機能的なシルエット。一度も使う事の無かった肩部姿勢制御用スラスター。計算され尽くしたカラーリング。そして絶対無敵の主役ロボ。
僕はあの頃、エヴァ初号機が大好きだった。スーパーロボット大戦Fではデータが飛びすぎてクリアーするのに去年までかかったけど、ずっとエヴァを使っていましたよ。カヲル君はミノフスキークラフト装備で屠殺したよ。
しかし、エヴァンゲリオンはカッコよくて無敵だ。しかし、だがしかし。10年経ってもエヴァンゲリオンのカッコいいフィギュアの新製品が出ると、こう思うようになった。
「これ、おかんゃん。
おかんが着ぐるみを着てるだけゃん。
おかん・・・。ええ年してそんなカッチョエー武器とか構えなくてええから、マジで。ハズいから!その格好で学校こんといて!」
ガンダムは、父親の作ったものであり男性の象徴を模したデザインである。が、父そのものではない。むしろ、父に作られた兄弟のような物であり、頼れるアニキのような物だ。
で、エヴァはお母さん。うーん。どうして、アニキに助けられるのは良くて、母に戦わされるのは気持ち悪いんだろう・・・?ジェンダー論ですか?
そして、そのおかん。


キチガイばかりのキャラクターの中で、一人だけ、唯一、未来に希望を持った女性。優秀な科学者であり死後も主人公を守る母。まさに完璧。
高校生の時の読書感想文も、碇ユイの名言「生きていればどこだって天国になるわよ」に感動したと書いた。
あの頃書ききれなかった感想を成人男性の脳でまとめると、こうだ。「世の中にはなんだかどうしようもない陰謀とか天変地異とか戦争とか事件とかあって、憎んだり憎まれたり、死んだり死なれたり殺されたり殺したりします。そんな世の中でも生きていれば天国に作り変えていけるんだ、作り変えていこうと言う気持ちが、なんかいいよね。シンジ君もその言葉で再生したし。」しかし、だがしかし。それだけか?
脚本集はテレビ版の内容だけだったので、映画のアレを入れてはいけないと思って、無難にまとめてないか?シンジ君が再生した後も、ああなったりこうなったりで、やっぱり天国は無かったんじゃないか?つーか、うーん。
全部、碇ユイのせいじゃないか。
この8年だか10年だかの間、思い返して思考を整理していくと、だんだんむかついてきた。
可愛さ余って、憎さ百倍。
決して、おれが京都大学受験に失敗した上に三流大学でもオチこぼれてひきこもりになったせいだけじゃない。
エヴァはVガンダムの後継だとも聞く。この二つの作品の共通項は母性だ。
その母性の危険性というものは、僕と同年代の少年達(震災、オウム事件の95年に12歳くらいだった者たち、ゴールデンエイジ)が起こした事件に垣間見れるではないか。
決して、僕がエヴァのポスターをせっかくもらったのでと部屋に飾ろうとすると、母親に「グダちんがエヴァンに取られてしまう!エヴァンのせいで宮崎勤みたいな犯罪者になってしまう!」と泣かれた上にポスターも捨てられたせいじゃない。僕が引きこもりになったときに母親が「エヴァンなんか見てるから悪いんだ!」と叫びながらプラモデルとゾイドを壊したせいじゃない。
ははは。そんな逆恨みの感情を作品論に持ち込んだりはしませんよ。ほんとだよ。
そこらへんも、見返していくとどうなるんだろうね。

※追記:母親はこの6年後、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qの公開一週間後に自殺した


そんなわけで、最終回のトラウマを念頭において鑑賞してみる。
この時点で碇シンジにとって、母、碇ユイは、父、碇ゲンドウによって殺され永遠に奪われた清浄な存在として位置している。(が、もちろん1話では説明は無い)
シンジが父を苦手に思うのは、単に捨てられたと言うだけではなく、母親を奪われたと言うトラウマもあるんだろう。
だが、僕が映画版で一番共感できたのは、実は碇ゲンドウであったのだ。「自分が人から愛されるとは、信じられない」このシーンが一番好きかも試練。
言ってみれば父、碇ゲンドウ自身も碇ユイに捨てられた男である。そして、それは息子は永遠に知ることは無いのだ。(補完中に知ったかどうかはわからん)
そう考えながら、見ると、ケイジや病院や破られた手紙も、なんだか、ねえ。アレです。かなしいというか、やるせないと言うか。
気持ち悪い。
エヴァンゲリオンはライブ感覚と言われたが、オープニングにカヲルは登場するし、やっぱり、こういう小さな伏線は考えられていたのだろう。劇場版は取ってつけたモノではないのだろう。うーん。気持ち悪い。
そもそも、この僕の文章の歯切れの悪さも気持ちが悪い。どうなることやら



劇場の最後では、セカイ系の勃発?らしく世界と人情だけの話になる。
が、1話、2話では驚くほど丁寧に世間やら情勢やらが描かれてる。エヴァンゲリオンの発進など、NASAのスペースシャトル発射もかくや。
その業務に参加するたくさんのNERV職員には一人一人家族が居て、疎開の心配をしたり世間を作っている。
今日、一番シンジ君に共感したシーンは「やっぱり僕は、要らない人間なんだ・・・」(泣笑)
これも、エヴァが動かせないからとかミサトさん赤木リツコさんだけじゃなくて、「周りに大勢いる普通のネルフの職員の大人が人の役に立つ仕事をして頑張ってるのに、僕だけは邪魔者で無能でニートでヒッキーで童貞なんだよなあ。クソックソッ」という、周りの人に見られてる中での、社会の中心での無能感が出てて非常に共感できて気持ち悪かった。
でも、最終回ではそう言う周りの大人たちは全員死んじゃったり無視されてたりでアレなんだよなあ。世界系に。
やっぱり、ガンダムみたいに、「あまりにもしっかりした世界観を構築しすぎてしまうと、途中で飽きてオカルトに走ってしまうと言うアレ」か?
だが、エヴァンゲリオンと使徒や綾波レイの設定をあのように組んでしまった時点で、どのように他人を描こうとしても、自閉する物語になる運命だったのかもしれない。
富野由悠季が「KINO Vol.02 思考としての『ガンダム』」で杉井ギザブロー監督との対談で。このように語っている。
「基本的に、僕はキャラクターっていうのは決定的に訴求力が強いと思っています。(略)劇画原作者の小池一夫先生も仰っている事で、世界観から入っちゃいけない「西暦2526年」からじゃなくて、キャラクターから入る。『北斗の拳』の企画は、おそらく地球がダメになった状況から入っているんじゃないと思うんです。北斗の拳ってキャラクターを掴んだところから入ったんだろうし、その方が世界観を結果的に描ける。だから、どういうキャラクターを使うのかが大事だし、キャラクター性がかなり確固たるものができたら、作品としてはうまくいく。
『ガンダム』の場合に一つだけ異例なのは、乗り物と言うキャラクター性ありきで始めてしまったこと。そのために、それに物語を設定したっていうことがあるんで、ちょっと異例でしょう。異例の問題に関しては、今の若い人はやってはいけないことになりますね。
(略)
 そして、ガンダムと言う物は、物語を作れるキャラクターではないのだから、本当の意味でのキャラクターとは言いがたい。ただ、グッズとしてはあり得るということです。」
なんか、この言葉を思いつつエヴァの始まりを見ると、世間と繋がった世界観を描こうとしつつも、小道具(乗り物、怪獣)とキャラクター(人間)とのハイブリッドな登場人物(?)の反則的に強力なキャラクター性に引っぱられて崩壊していったのかもしれない。と思ったり。
(あと、エヴァのドロドロを滅菌したかのようなグッズ産業にも興味深い言葉だ)
せめて、使徒の側の組織的な利益関係が有ればまた違った物になったはずなんだよな。


第三使徒サキエル


あさりよしとおがかんがえた使徒。水の天使の名前を持つぞ。
あさりよしとおは「エヴァはシンジ君の成長物語なんだから、素直に見ろ」と言っていたなあ。中学2,3年の1年くらいで成長し切れたら苦労は無いやい。
で、このサキエルの行動はおかしいよな。
単独兵器として役に立つ使徒が自爆をするのはおかしいよな。自爆というのは、後に続く物がいるからこそ、意味があるのである。サキエルが本来の意味で単独存在であるのなら、あそこはなんとしてでも逃げるべきだ。
が、逆に少しでもエヴァンゲリオンと第三新東京市に損害を与えるために自爆。
とすると、使徒同士の繋がりと言う物は有るのだろうか?
白き月(アダム)よりの使徒は黒き月(リリス)の使徒=人間と敵対してるから、いいのかなあ?白き月のグループで協力関係はあったのだろうか?
まあ、別にそこら辺の描写が無くても謎がどうとか言ってピーピー言うようなファンではない。
2015年時点で使徒の普段の状況を観測する手段が無いから、結果的に画面に映らないと脳内補完。だって、平安時代の物語にも正体不明ながら彗星とか出てくるじゃないですか。
ただ、彗星は現実にあるものであり使徒は虚構の存在である。
虚構の存在を観測する手段が無いと言う事は・・・。
エヴァンゲリオンの劇場版の補完シーンに出てきたセットの裏はただの鉄骨フレームということで、作られていない舞台の外は考えるなと言う事か?
庵野秀明も考えていない。と言うだけ?



 ツッコミポイント


綾波をエヴァの顔の前に持ってくるのは発進準備としてはおかしいよな。そのうえ、周りに居た医療系職員が、綾波がベッドから転げ落ちた後は消えてるのもおかしいな。
わざとシンジ君にレイを抱き起こさせるという。
親父はなかなかの変態だと思う。そこらへんもユイさんの思う壺だったりするのか?

サポートのおかげで、これからも執筆活動などができます