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ガンダム THE ORIGIN 最終回が悲しかった。

 機動戦士ガンダム ジ・オリジンを全部読み終わった。


 安彦良和さんの漫画ならではの新要素と、達者な絵心で、「最初」のアニメのガンダムでは、安彦さんの言うように描写が不足していた所を付け足し、つじつまを合わせようとした意図は分かる。

 が、コアブロックやニュータイプや挿入歌は漫画ならではの付け足しを自分で無視してアニメのそのままをツギハギで入れている。特に、マンガなのに劇場版ガンダムの挿入歌の歌詞をネームでそのまま貼ってしまうっていうのは、マンガの演出としても下策だと思う。マンガとしての面白さではなく、当時のアニメ映画の面白さやノスタルジーを歌詞を通じて又借りしているようなものだ。

 各キャラクターの感情や、作劇としてのリズムやコンティニュイティがブツ切れで、コミカライズとしては充分なレベルとして絵は綺麗だが、「最初」のアニメのガンダムに在った高揚も充実感も感じなかった。
 虚しくなったのです。
 具体的に言うと、アニメーションの機動戦士ガンダムのラストでは、シャアと剣で傷付け合い、セイラとシャアが隠していた関係を知って傷付き、爆風で飛ばされ、どん底まで傷付いたアムロが、「ララァの所に行くのか」と寂しく絶望を受け入れた時に、どん底で傷付いたガンダムに待っていてもらったのを見つけ、
「まだ、助かる……ッ!」
と呟いた場面を、私はラストシューティングやラストカットより好いているのですが、コミカライズ版ではそこの迫力がなかった。
「頭と手足を失ってもなおアムロにとっての守護神であるガンダムの主役メカとしての存在感」が大好きなのですよ、私は!

 だが、コミカライズ版ではララァにわざわざアニメにはなかった台詞で(霊なのに!)くどくどと説明されてアムロが生きる意欲を取り戻すというのが、ガンダムだけでなくアムロの主役や「人間」としての生命力を減じて表現し、読者である私に「弱い」と印象づけてしまった!
 アムロは最強のニュータイプで、ガンダムの最高の操り手だったのだから、言葉が無くてもガンダムに出会っただけで息を吹き返し、ついでに仲間も助けるだろ!
 それがないコミカライズ版は簡単に言えばつまらない。
ヒーローが強くないと!
 テレビのカミーユやショウ・ザマやカテジナのように強くない主人公の悲哀が表現されて感情を揺さぶるようなラストでもなく、特に理由もなくアニメのガンダムと同じにホワイトベースは全員助かるし。
「とりあえずコミカライズ版を雑誌百号に合わせて終らせた」という商業的都合の印象しか、私には感ぜられなかった。

 安彦良和さんは常々、「アニメのニュータイプ思想への路線変更はガンダムらしくない」とか「スポンサーの都合でガンダムらしさがゆがめられた」「だから本当のガンダムを僕がリアルに描く」と発言していた。だから、すっごく楽しみだった。どれくらい楽しみにしていたか、具体的に言うと、創刊号から表紙込みで、ガンダム・ジ・オリジンを全部切り抜いて保存していて、愛蔵版を買わないで済んでいたくらい。
 安彦良和原画展に行って原画集も買ったしサインも貰った。
 やっぱり安彦良和先生の絵は芸術だと思うし、単行本や愛蔵版より雑誌版の大きいカラーで保存したくて毎号購入して切り抜いていたんですよ。最初から最後まで!


 でも、安彦先生が言うほど、ニュータイプ思想に対する新しい彼なりのカウンター思想は無かった。ニュータイプが嫌いと言う割に、結局はアムロやララァのテレパシーを描いてしまった。しかも、中途半端に書いたため、ア・バオア・クーでみんなを脱出させるアムロのすごさが薄れている。
「ガンダムをリアルに描く」という事でコア・ファイターを付けていなかったのに、ラストシーンのラストカットを描くためと言うだけの都合のつじつま合わせで、何の理由も必然性もドラマ性も感動もなく、コア・ポッドを出した。しかも、そのコア・ポッドが全くカッコ良くない。アムロが最初から最後まで苦楽を共にしたコアファイターを捨てるからこそ泣けるのであって、ポッと出のポッドがラストカットを飾っても、何の高揚感もなくただむなしい自分を見つけた時、可笑しくなったのです。
 非常にどっちつかずで思想や志のないコミカライズであるという印象を、私は受けたのです。


 いま、私はそのような印象を受け取ってしまったという事に、非常に戸惑っているのです。ガンダムエース創刊号のオリジンの一挙100P掲載の衝撃や、萬画としての躍動感や、一本筋を通した独自の解釈は本当に素晴らしいものだったと記憶しております。
 ですが、今はそれが瓦解して終わったのです。
このような発言は全く関係者ではない読者の特権として言わせていただけるものと、傲慢な想いで感想を書かせて頂いております。


 富野監督はガンダムエースが創刊される時、安彦さんに「書いていいよ」って言ったけど、ちゃんと読んでないらしい。
 福井晴敏さんがガンダムUCを書いていいかと富野監督の自宅を訪ねた時、仕事の片手間に「やりたいならいいよ」って流したらしい。(福井さん本人が言ってた)
 もう、富野監督はガンダムから卒業しまくっている。


っていうか、1997年に角川ミニ文庫で、2000年からはスニーカー文庫で富野監督が上梓した「密会 アムロとララァ」のあとがきで富野監督自身が「これは将来、ガンダムの原作として認知される小説です」と書いた。
 事実、オリジンを読み終わった後に密会を読むと「こんなに短くて安くて20年後に描かれて、しかも挿絵のララァは大槍葦人の尻で芸術なのに、これこそがガンダムの本当の原作だ!」って、お、も、う。不思議!

 だから、いくら安彦良和さんやサンライズが富野監督のいない所で富野監督の気持ちを勝手に代弁して言った所で、富野監督本人が「密会がオリジナルだよー」って書いているんだから、それは絶対に覆らないし、ファーストガンダムのアニメはもちろん最高だし、小説版ガンダムのオリジナルのクスコ・アルなどの雰囲気も素晴らしい物だった。


 僕はただのガンダムファンです。ただ、面白い物を面白いと思うだけです。
 だから、面白い物を応援するだけです。
 そこに、自分の理屈や損得やおべっかや商業的意図はありません。ただ、面白いと感じるかどうかという野生の本能です。
 僕だって本当は安彦良和のガンダムを面白がりたかったのです。でも、自分の感情に正直にならなければ、何も面白がることはできないのです。だから、仕方のない事なのです。


いやあ、富野作品は実に面白いですね。
でも、富野も良いけど大槍の尻は芸術だと思う。
っていうか、オリジンをアニメにするより、密会を青年向けゲームにしたらいいのに。
ミニ文庫版の挿絵の人は亡くなったしなー。

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