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エヴァ、新旧のファンの違いについて庵野インタビューの比較

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 朝日新聞beに掲載された庵野秀明監督の新世紀エヴァンゲリオンシリーズに対するインタビューが話題である。


僕が「娯楽」としてつくったものを、その域を越えて「依存の対象」とする人が多かった。
そういう人々を増長させたことに、責任をとりたかったんです。
作品自体を娯楽の域に戻したかった。
ただ、今はそれ(現実逃避するオタクへの批判)をテーマにするのは引っ込めています。
そういう人々は言っても変わらない。やっても仕方ないことが、よく分かりました。
http://2r.ldblog.jp/archives/7265947.html



という、オタク批判である。


 時系列と登場人物を整理すると、
 庵野はオタクを増長させた事が嫌だったと言っている。
旧作のテレビシリーズ新世紀エヴァンゲリオンのファンは、増長したのだ。
だから、旧劇場版THE END OF EVANGELION で現実に背を向けてエヴァと言うアニメに逃避するファンを批判し、責任を取って作品を娯楽にしようとした。だが、それはやっても仕方ないと判断した。
 で、今のヱヴァンゲリヲン新劇場版はヒットさせたいけど、ファンが増長する事や過剰に反応する事は、自分の責任ではないと割り切っている。
 そして、新作のファンは旧作のファンと質が違う。ただ、具体的にどう違うかは言えませんが、と言っている。
 なぜ、新作のファンと旧作のファンが違う。だが、それは言えない。なぜか?それはおそらく、旧作のファンをさらに傷つけ、また過剰反応と増長を招くから、政治的に言うべきでないと判断したからであろう。


 新作のファンは旧作のファンほど、エヴァーに入れ混んじゃいない、と言うのが大きな違いだろう。一般ライトオタク層に波及している。現在は不況が長期化して、もうどうでも良くなっている停滞した時代。ダラダラと娯楽を消費する時代。(東日本大震災以降、ちょっと変わったが?)
 対して、旧作、90年代後半のファンは、バブル崩壊後の精神的混乱、新興宗教の勃興、心理学書籍の流行、などの暗い時代の暗い情熱をエヴァに向けていた、くどいオタクやサブカルチャー人が多かった。つまり、必死だったんだな。


 じゃあ、なんで必死だったんだろう?
 それは、テレビ版新世紀エヴァンゲリオンがグダグダのラストでありながら、主人公たちに「そこにいてもいい」と認めたからだ。それで、エヴァンゲリオンのファンと言うオタク達も「ここにいてもいいんだ」と擬似的に承認された感覚を感じて、エヴァに頼ってしまって依存したのだ。
 ほら、オタクって基本的に今も昔もいじめられてるし、「この世にいるな」って皆に言われながら生きてるじゃないですか。そんな人たちが自己啓発セミナー的な破綻した最終回であっても「僕はここにいて良いんだ!」って思えるのは、救いだったのかもしれない。もちろん、エヴァが売れて経済効果を発揮したおかげで、ファンも世間に認められたような気分になったりした。

 実際、庵野はアニメージュの当時のインタビューで「テレビの25話を見た女性から、本気で泣いたという話を聞いて嬉しかった」的な事を言っている。

 24話までのストーリーも、煎じつめれば「使徒をぶちのめしても、ここにいていい」と主張するために戦う話だったし。


 下記の出典をみると、庵野が25話で女を泣かせたのは、「身に覚えのある気分の悪さ」を見せつけて泣かせて、嬉しかったという事で、別に救いではなかったようだ。でも、気分の悪いものであっても、自分の身に覚えのある事、自分に似たキャラがテレビに映るってのは、ゆがんだ自己肯定に成りそうだなーって言う風にも思った。少なくとも、一人じゃないっていうか。ここにいてもいいんだ、って。


 貞本義行の少年エース版エヴァンゲリオンの1巻の庵野インタビューを引用しよう。


シンジは、他人との接触をこわがっています。
自分はいらない人間なんだと一方的に思い込み、かといって自殺もできない、臆病な少年です。
ミサトは、他人との接触を可能な限り軽くしています。
二人とも、傷つくことが極端にこわいのです。
二人とも、いわゆる、物語の主人公としては積極さに欠け、不適当だと思われます。
だが、あえて彼らを主人公としました。
「生きていくことは、変化していくことだ」と云われます。
私はこの物語が終局を迎えた時、世界も、彼らも、変わって欲しい、という願いを込めて、この作品を始めました。
それが、私の正直な『気分』だったからです。


 つまり、バブル景気の頃の明るい気分に乗れなかった根暗な人物(おたく層とか精神障害者や庵野本人)に重ねたキャラクターを”あえて”主人公にしたわけだ。
 そういう人物が、最終的に「ここにいて良いんだ!」って思いました。っていうのがテレビ版エヴァに最初に込められた願いだった。だが、まあ、やっぱり根暗なオタクが存在するのは難しいので、最終回はすごく無理矢理になっちゃったわけだけど。


 無理やりででも、「ぼくらはここにいてもいいんだ!」って居場所を提供されたオタクははしゃいじゃったんだな。「こんな自分みたいなダメ人間が出ているアニメですら世間に放送されているんだから、私たちもここにいていいんだ!」って。
 まあ、ナディアの頃からはしゃいでたんだけど。
 エヴァはそれをナディアよりももっと露骨にやってしまった。ナディアは、まだSFアニメとして、物語世界の中で閉じていた。でも、エヴァは「ぼくたち、あなたたちのものがたり」という風に開いてしまったんだなー。
で、「パロディ、オタク要素満載のアニメでも、僕らはここにいて良いんだ」とか「精神を病んでいる私たちも、ここにいて良いんだ」とか「無駄な軍事オタク、宗教オタクでも、ここにいて良いんだ」っていうふうにオタク達が増長したのだ。
 そこに世間が迎合して、心理学本とか考察本を出したり、グッズを売りまくって「あなたたちはここにいて、商品を買って良いんですよ」ってやってしまったのだ。新聞にもエヴァの記事が載ったり、「経済効果!」ってあおったり、アスカと一緒に映れるプリクラとか出たし。
 そりゃー、増長もするというもの。
僕も当時は中学生でしたしね、増長させていただきましたよ。
 なんか、オタクが社会の中で発言権を持ち始めた機運のきっかけがエヴァでしたね。インターネットやパソコン通信の発展とも重なった時期で。
まあ、それが21世紀の社会的に市場としてオタクが認められる状況の切っ掛けになったんで、まあ、経済的には悪い事ではないのかなー。フィギュアに使われる石油資源は無駄かもしれないけど。


 ですが、庵野秀明的にはそういうオタクどもの増長がしんどかった。
なんでか。
 シンジが「僕はここにいていいんだ」と言うに至る物語は、同時に庵野秀明が「庵野秀明ここにあり」と言う気分を込めたフィルムだったからだ。すごく個人的なものだったんだね。最初は。

『新世紀 エヴァンゲリオン』には、4年間壊れたまま何もできなかった自分の、全てが込められています。
(少年エース版1巻、庵野秀明)


 それをオタクが「庵野がオタクはここにいていいんだと言ってくれた!」と感じて、庵野に依存した。庵野は「僕がここにいるんだ!」と言う側にいたかったのに、信者から「庵野さんは僕らにいていいって言ってくれる」って言われてしまう側に立たされてしまって、庵野さん的には「いや、それは話が違う。居ていいのは僕であってお前ではない」という気分に成って、テレビと映画の間でオタクとの微妙な心理戦があって、劇場版EOEではああいう映画に成ってしまったのだ。


 まあ、人の考えの流れ、人間関係としては、そういう事もあるかもねー。自分の承認欲求を満たしたかった庵野さんが、数百万人の視聴者の承認欲求を抱える羽目になるとしんどかっただろうなあ。




 んで、今のファンはそこまで庵野に期待してないんだろうね。必死に庵野に認められる事で自分を認めて欲しい、みたいなアニメージュやパソコン通信や変質者ファンレターを送りつけるような依存は、新劇場版ヱヴァファンはない。
 なんでかって言うと、オタクの存在、「いてもいい感」みたいなのはエヴァじゃなくてもニコニコ動画とかツイッターとか、他のSNSで満たされてるしね。ほら、昔はアニメ雑誌やムーやメル友募集雑誌がコミュニティーだったけど、今は部数も減ってるし、違うじゃん。インターネットじゃん。
 むしろ、庵野秀明はオタク同士の相互依存をするっていう役割から、「すごいクオリティーのアニメを作るベテラン」っていう尊敬の対象に変わってるんじゃないかなあ。今のファンからすると。あんまりナディアのころみたいな仲間意識はなくなったよね。昔は岡田斗司夫もイデオンのイベントでファン代表としてコスプレしてたのにねー。今では文化人ですよ。

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