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勇者特急マイトガイン嵐を呼ぶ最終回とは?

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 最終回だけ26年ぶりに見た。うん。かなりうろ覚えだねえ。ヴォルフガングが落ちていく所だけは衝撃的に覚えていたけど。
 子供心に、悪人が正義に目覚めて自己犠牲を行うっていう所が衝撃的でした。
 ここら辺の勧善懲悪のようでちょっと違うのが高松信司監督らしい、と、おっさんになった今では書けたりする。
 
 
 で、アニメおたくのマダオおっさんの間ではとても有名で半ば常識になっている最終回の「二次元人に対する三次元人の侵略」という高松信司監督らしいメタ展開をやっとこさ見たわけだ。
 高松信司監督はメタ展開が多い。ゴルドランのリカちゃんとか、ガンダムXとか、こち亀や銀魂にスタッフが出てきたり。エリザベスがtwitterをやったり。
 エヴァンゲリオンみたいな楽屋落ちな感性の世代でもある。「自分たちの作っている作品は先人のパロディにすぎないのではないか?」とか「アニメは集団作業で作りものの嘘を夢だと言って子供やおたくに売る」というコンプレックスに悩む世代。(21世紀に入ったら開き直りとか、オタクでもアイデンティティは脱オタファッションなどで得る人も増えましたが、本稿では本筋ではない)
 で、90年代は「これは虚構である」というのをぶっちゃける作品が多くありました。(80年代にアニメーターが1コマエフェクトで遊びを入れたり、もちろんビューティフルドリーマーとか、そこら辺の流れもあった。魔界塔士Sa・Gaの「かみ」もブラック・ノワール的でしたなー。)
 で、高松監督作品はその中でもメタ視点を良く使う人として有名。
 
 
 で、そのようなかなり危険球の最終回をやっと見たのですが、機動新世紀ガンダムXの最終回について書いたエントリと同じく、キチンと感動できて、その上で色々と考えて面白かったです。
 単純娯楽作品で、パロディ要素もちりばめられたギャグ的な所も多いのだが、色々考えたなー。
 1994年作品で翌年の新世紀エヴァンゲリオンの時、アニメ誌で「楽しいだけのアニメばかりで、みんな考えるアニメに飢えていたから、エヴァが受けた」って書いてあったけど、いや、勇者シリーズもなかなかどうして深いじゃないですか。
 エヴァはちりばめられた謎が分かりやすく、考える道筋をつけやすいな、とは思います。
 マイトガインって結構、「我々は三次元人だ」とか、投げっぱなしなんだよなー。危険球を投げてるのに、さりげなくて唖然とする。ま、そこら辺がエヴァほどギミックを使わなくて、娯楽作に、っていう所かも知れん、が、セル画を出しちゃうんだ…。
 
 
 ガンダムXの場合も物語としても完結してるんだけど、かなりガンダムを取り巻くバンダイやらサンライズやアニメ業界を含めたメタ構造になっていた。
 マイトガインも「これはアニメです」以上にクリスマス商戦やら、番組改編に伴う前番組玩具の削除とか、そこら辺を盛り込んでいたねえ。グレートマイトガインが敵のエグゼブの乗った巨大バリロボに玩具の様に弄ばれてイデオンみたいに塗装がはがれて壊れていく所とか。
 富野ファン的にも見所が多い。
 轟竜のドリルがスイカバーだったり(レイアウトは逆)。「ドリルは取れと言ったのだ」のエグゼブのシロッコっぽさとか。ブラック・ノワール軍のロボットがザクとかグフにVガンダムのゾロの意匠を取り入れたようなデザインなのもガンダムっぽいなあ。
 パープルはマクロス7ぽいです・・・。90年代初頭のバンドブームがあったねー。遠い目ー。
 
 
 と、そのように、細かいネタとしても十分に面白いし、メタフィクションやらスポンサー批判(というかネタ元)という面でも面白かった。
 の、だが、それはまあ、言い尽くされた部分なので、じゃあ、何でそんな作りものを面白がってんの?っていう所に焦点を当ててみたい。
 枕が長い・・・。本筋は短く。
 
 
 この勇者特急マイトガインの最終回では、「つくりもの」という物が繰り返し強調される。
 最終ボスのブラック・ノワールが娯楽のためにマイトガイン世界を作った三次元人であり、それも作り物だった。
 ガードダイバー、バトルボンバー、マイトガンナー、が戦死しても、ロボットだから、マシーンだから、谷田部三部作の命を持った勇者じゃないからAIのバックアップと機体の修理ですぐに治る。
 そして、ラストでは超時空要塞マクロスのエンディングのアルバムのような構図で、『舞人とサリーを描いた「セル画」の絵』が映し出される。
作りものなんだ。
 
 
 だが、しかし、その一方でガンダムXのラストでニュータイプという幻想に捕らわれなくなったガロードが逆にニュータイプになった(か?)のような希望的な要素を、マイトガインも持っている。それがイノセントウェーブ。誰もが持っている心の脳波であるイノセントウェーブが、自我が、三次元人ブラック・ノワールの支配する空間を打ち破るエネルギーとなる。
 最終回のひとつ前、「絶望からの脱出」において、イノセントウェーブが発生したのは、作り物の心を持ったガードダイバーが人間の女の子を助け、その女の子から作り物の人形を手渡され、その隙に敵に撃ち殺され、バトルボンバーという作り物のロボットも敵に刺殺された事でサリーが「誰も死なせたくない」と叫んだ事によるもの。作り物の人形に対する人間の感情が、最後の武器。
 しかし、それで発生したイノセントウェーブも三次元人がゲームを面白くするために作った道具で、作り物に過ぎない。
 そもそもサリーちゃんも作り物の作中の人物だし。
 
 
 では、本当のイノセントウェーブとは?それはTVの前の視聴者が「悪には倒れてほしい」という気持ちだろうし、もっと言うと、そう言う風に視聴者に思ってもらえる作品を作りたいという握乃手紗貴や高松信司やスタッフ諸氏の気持ちなんだろうねえ。
 感動したいし、感動させたい!!それがつくりものでも!
そう思いながらバリバリにマイトガインの口の中の舞人が檜山修之の声で絶叫しながら必殺技を放つ絵が描かれ、神々しい女神の様に髪をなびかせる石田敦子顔のサリーちゃんが描かれるのだ。
 そのような「視聴者にポジティブになってほしい」という願いは他の高松作品でも描かれていた。
 
 
 でも、それは作り物なんだ。勇者シリーズの玩具で遊んでいる子供のごっこ遊びなんだ。なら、このようなメタ展開は子供を無視した大人にだけわかるネタを仕込む作り手のオタク的自己満足と言うよりは、玩具で遊んでいる子供の気持ちをわかりすぎて(ちょっと妙な方向へ行った)ものなのではないだろうか。高松勇者作品は結構玩具的なプレイバリューも反映されたものが多いしねえ。玩具の機能を劇中でも再現したり。(ガガガとかもそれはやってるけどー)
 でも、それは子供の玩具だけではない。ガードダイバーの人形のように、人形に何かの願いを託す事を、人間は数千年前から続けてきた。
 生物として冷静にみると、かなり異常な行動様式である。だが、なぜか人間はそういう事をして生きている動物なのだ。
 そのような不可思議さが、イノセントウェーブと言うか、命の力なのではないか?と、カミーユの様な事を言う。そして、そのような作り物の人形に心を震わせるのが我々視聴者で、人間なんだ。そのような不思議に気付かせてくれるのが勇者特急マイトガインという作品。
 いやはや、深いですなあ。澁澤龍彦先生。マイトガインは人形愛の話だったのか。
 人形愛は人の内面を写す鏡。
 
 
「ここでお人形さんのようにじっとしているんだよ」と、第一話で足をくじいて動けなくなった吉永サリーに向けて旋風寺舞人がかけたキザな言葉が伏線になっているとまでは思わないけどさ…。
 
 

 
 
しかし、後日談の新婚旅行で舞人は夢を見るわけだが、アニメキャラクターは電動紙芝居の夢を見るか?

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