白膠木簓が躑躅森盧笙と再び組みたいのは“未練”なのか

オタクとなって早十年ほど、初めてnoteというものを投稿する。

始めに断っておきたいのだが、これは全て個人の解釈であり、それを言語化して固めるためのクソ長文に他ならない。オタク・腐女子・夢女子を兼ねて長年やってきた人間として、それを他人に押し付けようとは思わない。が、ここ数日で自分の解釈をアップデートするにあたり、己と異なる解釈に対する批判・反論の類が存在したのも事実なので、誰かの解釈を否定するような書き方をしてしまうかもしれない。ブラウザバックをするか、大目に見て欲しい。

ここ数日―具体的に言うと、白膠木簓と躑躅森盧笙とヒプラジを終えてから―かなり情緒が乱れた。脚本が外してこないと話題のヒプラジで、最推し2人がどういう風にこちらに語りかけてくれるのか。公開前は本当に楽しみだったし、いや、実際凄くよかったと思う。

簓は、売れっ子芸人として、不特定多数の人間に見聞きされるのに最適化された、“誰も不幸にしない”振舞で終始やりきって見せた。それは正しくプロの芸能人としての所業であったと思う。公開後「簓自身のこと何もわからなかった」「不気味」といった意見を見かけることもあったが、私はあまりそうは思わない。彼以前にパーソナリティを務めたキャラに比べれば確かに彼自身への言及は少なかったのかもしれないが、全く無いわけではなく、当然のことを言うが特に“簓への質問”であることを明記されたお便りには、自分を主語にして答えていた。お好み焼きの話とかね。真偽はさておき(流石に偽では無いと思うが)、そこを変に逸らそうとしたり誤魔化したりするような感じも無かったので、彼が自身とリスナー(ファン)の間に必要以上に壁を置きたがっていたとも思わない。忘れてはならないが、あの日のラジオの趣旨は、彼自身が冒頭で宣言していた通り「お悩み相談」であった。これはキャラのことをより深く知りたいリスナーが多数を占める「ヒプノシスRadio」にはあまり当て嵌まらないのかもしれないが、そもそもの話、相談とは基本的に相談主自身についての論議であり、相談相手に求められるのは解決策なり何か心が軽くなるエッセンスなりであって、自分語りでは無いのだ。恋愛相談したらいつの間にか自分の恋愛武勇伝語り出してくるような男とは距離を置くだろう。「お悩み相談ラジオ」と銘打った以上、「相談」が主眼のお便りを多く選定するのは趣旨に沿うのなら当然のことであり、それらに対応する際に“自分(簓)”に重きを置くのは趣旨に反する。簓について得られた情報が少なかったと言うならば、それは彼が、あのラジオのパーソナリティとして自身に求められたことを終始正しくやりきった証左に他ならず、そう出来ることこそが彼・白膠木簓に関する最も大きく重要な情報だったと私は思う。

さて、そんな白膠木簓のラジオの1週間後にやってきたのが、躑躅森盧笙のラジオである。唐突に完全なる私見を述べるのを許して欲しいのだが、私はどついたれ本舗の中の人について、「ラップの岩崎さん・演技の河西さん・声質の黒田さん」だと思っている。もちろん3人とも全てにおいて素晴らしいのは言うまでも無く、ただ私がそれぞれ彼らのどこが好きかと言われたらこうだというレベルの話なのだが、まあ河西さんは演技が凄い。具体的に何がと言われると、キャラの感情の機微をミリ単位で、余すことなく表現するような精巧さがある。ブクロドラパの「……しんどいわ」の一言などが顕著だ。今回のラジオでもそれは遺憾なく発揮されていて、その技術はまた多くのオタクに考察の幅を与えたことだろう。内容としても、盧笙が芸人であった過去については冒頭の最小限の言及と将来の夢に関する質問の答えからこちらが推察できる程度の余白的なものに留まり、大部分は、彼の現本職が“教師”であるという事実をビシバシ感じられるものとなっていた。正直、めっちゃ良かった。盧笙先生の生徒になりたいな〜。けど卒業したとしても生徒とは絶対に付き合ってくれなさそうだからやっぱ同僚とかに転生しようかな〜。真面目に結婚したいしな〜〜……多くの女性をこんな状態にしたことだろう。私もそうだ。そのくらい、躑躅森盧笙は理想の教師だった。で、やっと冒頭に戻れるのだが、じゃあそのラジオの何がこんなに私の情緒を不安定にさせているのかというと、この躑躅森盧笙と、その1週間前に理想の芸人としてラジオを恐ろしいほど円滑に回した白膠木簓が、過去に漫才コンビを組んでいたという事実である。そこだよね、全ては……

2人のラジオを終えて、彼らの関係性に関して、多様な考察や解釈を見るようになった。私が主に引っかかったのは、「白膠木簓が躑躅森盧笙ともう一度組みたいのは“未練”なのか」という点、そして「白膠木簓と躑躅森盧笙、どちらが天才型で努力型なのか」という点だ。

これからこの2点に関するあれこれが続くわけだが、私は恐らく、長い割に、前者についても後者についても、煮え切らないような結論しか出せないと思う。二次元も三次元もオールオアナッシングじゃないと思うし、殆どの事象はグラデーションだと考えているから、そうも言えるけどこうでもあるんじゃないか、というようなことしか言えない。これはもう、性質なので……許してください。あしからず。

ではまず、白膠木簓が躑躅森盧笙と再び組みたいのは未練なのだろうか?盧笙のラジオの日、それを聞き届ける簓のイラストや漫画が多く流れてきて、その中の彼の表情から、既にかなり色々と解釈が分かれていることが見て取れた。唇を噛み涙を流しているもの、謎の発電回答に爆笑しているもの、安堵したように笑んでいるもの――何がこの差を生んでいるかといえば、やはりそれは「簓が盧笙と“お笑いで”再びコンビを組むことをどれくらい望んでいるか」に関する解釈の違いだろう。その望みがもし強いものなら、物言いひとつからその内容まで全ての要素で盧笙が良き教師である事実を物語るあのラジオは、簓にとって手痛い事実を突きつけるものであったに違いない。簓は盧笙に対して“未練”があって、それは激しく食い下がってラップバトルのメンバーに盧笙を誘うほどだったけど、当の盧笙自身はそれと対照的に前を向いて今を生きているから……うーん……そうだろうか?  確かにオオサカのドラマパートで盧笙を勧誘する簓は執着めいたものを感じるくらい熱烈ではあったけど、素気無く断られてナンデヤナンデヤと食い下がるだけの(単なる“未練”とかでない)理由が、簓にはちゃんとあったはずだ。解散の理由をはっきり告げられていない以上、簓が「辛そうだったあの頃と違って教師としてちゃんとやっている今でもこんな風に断られるのは予想外だった」と思っていたりしても非難はできない。つまり、解散時互いに言葉足らずのまま別れてしまったのだから、“未練”があるのか?無いのか?と問われれば、より客観的な立場で解散という事態に対面し言い足りないことも聞き足りないことも有りすぎた簓は特に、ある程度それに類するものを持っていても致し方ないと思う。デビュー後すぐに売れるくらいコンビとしてポテンシャルがあった、第三者の面前で躊躇いなく「大事な相方」とか言えちゃうくらいの存在に、解散を持ちかけられ、辛そうな彼を思い理由も問わずに手を離した。同じ状況になれば誰だって様々な感情を育てることになるはずだ。再会して、お前にとっても利点があるはずやと一生懸命勧誘したのに、また何も言わずにフラれたりなんかした暁には、揺すりまくってどうしてどうしてと訊きたくなるのもある意味当然のことで、簓の感情が特別巨大かと言われると、ちょっとわからない。どちらにせよ、そういう感情が彼の主たる原動力ではない気がする。簓は盧笙に、「もう一度“お笑いコンビ”を組もう」とは一言も言っていない。ヒプノシスマイクを口実にまた距離を詰めた際の本心にはそういう意図があるのではないか、という推察もあるだろうが、確かに簓はドラパにおける心の声の表現も多く本音と建前を使い分ける人物であるとは云え、盧笙に対してそれを、ましてや(彼の意思を尊重しないという意味で)牙を剥くように発揮するとは、やはり思えない。盧笙に対して簓が放つのはほぼ飾りがなく正直な言葉だとするなら、バックアゲインで「(苦境を)乗り越えてくれるのを願ってたんや。せやから、解散したい言われても黙って了承した」と言った簓が、再起のために自ら選んだ道の上で立派に挫折を「乗り越え」た先にいる“教師の盧笙”に負の感情を抱いているとは考え難いし、「今は別々の道を進むことになっとるけど、俺は変わらず、お前の気配りやまっすぐに芯の通ったところをリスペクトしてるんやで!」「お笑いやないけど、もういっぺん俺と組んで、一緒に天辺目指さへんか」に余計な含みは何も無いだろう。文字にしてみると尚更、本舗結成前から、簓は“俺は芸人で盧笙は教師”という事実に対して、こちらの想像よりかは吹っ切れていたように感じる。吹っ切れた上で、でもお前のことやっぱ人としてめっちゃ好っきゃねん、それじゃダメか!?みたいな強情さも確かに感じ取れる。リスペクトの要素として挙げた“気配り”“芯がある”も、芸人としての長所に通ずるものでもあるかもしれないが、言い方的には根本の人間性に関することだ。vs零ラップバトル時のリリックにも現れている通り、簓には、コンビを解散しても、盧笙という人間との関係を解消するつもりなど更々無かったのは確かだろう。だが、そこに未練と呼ぶような湿度は無いように思う。信頼とか、友愛とか、もっと強固でカラッとしていて、バイアスの無い言葉の方が相応しい。精神ラップバトルのチームメイトとして、気のおけないが信頼はおける人間を選びたいと考えるのは理にも適っている。じゃああと1人は怪しさ満点の詐欺師でいいのかって話になるけれど……3人の関係性から目が離せない本舗がしんどくて好きなので、そこはこの先の展開を待つのみである。ただ、それじゃあ簓が「もう一度盧笙とお笑いをしたい」という願望まで吹っ切っているかというところになると、これはもう、ちょっとわからない。ここからは幻覚が更に激しい領域になってくるが、そういう思いは、盧笙が既に“教師”として己の未来を描いていると理解している簓の心の、もっと奥深くの部分に根を張っているのかもしれない。「人を笑かすのが好き」「盧笙以上におもろいヤツはおらん(簓調べ)」ことを併せて考えれば、盧笙ともっかいお笑いやりたいなァという願いは、簓にとって簡単に捨て切れるものではないだろう。もしかしたら、盧笙の中にも似たような思いが眠っているかもしれない。お笑いで天辺を取るのが盧笙の夢でもあったことは、ドラパやソロ曲で彼自身が明言している。モヤシみたいな思い出にはsay_goodbyeらしいが、それは芸人であった過去それ自体ではなく挫折を招いた当時の自分の弱さとの別れであって、「お笑いなんてもう全くやりたくない」なんてことは決して無いだろう。だが、解散を経て道を分かった以上、それらの願いはきっと当面叶わない。簓は芸人、盧笙は教師。それぞれの選択の先に責任が在るし、やり甲斐も在るだろうから。他でもない当人たちが一番よくわかっているはずだ。しかし、簓にしても盧笙にしても、その上でいつかと諦め切れない思いが在ったとして、心の声ですら語られないほど胸に秘めたものなら責めることもできないし、再会し、解散時の真実を語り合い、最終的にチームを組むことになった2人の幸せそうな声音を聞くと、憐れむべきだとも思わない。盧笙は、「自分の夢は潰えたけど、夢を追う奴を応援することならできる」と、持っていないものや失ったものでなく、残された可能性や自分にできることに目を向けて、やり甲斐や幸福を見出した。2人の互いの関係についてもそれと同じように、元に戻らない部分を嘆くんじゃなく、「今築ける関係」に希望や幸せを見出していたらいいなと思うし、そうできる人たちだと思う。どちらかが優れて前向きだからとか強いからではなく、あくまで対等に、当時より精神的に成長した上で解散した時の真実を明かし合い、信頼や絆をより強固にできていたと、バックアゲインを何度聞いてもそう感じられるからだ。

次に、これもラジオ後様々な意見をよく見かける、「白膠木簓と躑躅森盧笙、どちらが天才型で努力型か」に関してである。これも、天才↔︎努力だけでなく、盧笙が天然で簓が人工……など様々な表現を見た。どんな表現でも言わんとしていることは掴めるし、簓と盧笙それぞれの、笑いにおいて秀でたところ・得意な部分・できることなどと言った概念的なものは、恐らく多くの人が同じ解釈を持っているのではないだろうか。盧笙は、身の回りにもたまにいる、急に拍子抜けするようなことを言い出すからおもろいタイプの人だ。顔が綺麗だから意外性は2倍増しだし、彼がまっすぐな良い人であることを知っている人間からすれば、奇を衒ったりしていないことがわかるから一層面白いのだろう。対して簓は、彼を初めて見ようが劇場の常連だろうが関係ない、平等で、洗練された、隙のない、計算づくの、それで飯を食う人間の話術で人を笑わせる。成程非常に対照的で、どちらが天才か努力の賜物かと言われると、これはもう、簓と盧笙ふたりの解釈というよりかは、「笑いの才」とはそもそも何なのか、というような話になってくると思う。盧笙については、公式から芸人時代の解像度が高い情報が無い限り、「芸」として彼が笑いを振り撒く際のポテンシャルについては不明のままだろう。バックアゲインで養成所時代について言及するときの言い方からして、彼の“素の面白さ”を舞台用に活かすのはなかなか上手くいかなかったのかもしれないが、狙わず、衒わずとも笑いをとれるのが一種の笑いの才能だとするなら、やはり盧笙は天才と言えよう。だが、ではそれと反対に理詰めのような形で笑いをとっている簓が「努力型か」と言われると、個人的にはちょっと微妙だ。そもそも、何というか、極論、「盧笙と簓、どちらが天才なのか」という議論は、ひとつの観点に絞った時点であまりフェアじゃないと思う。簓についてだが、確かに私も、彼が漫才師として必要なこと全てを感覚で成し遂げちゃうチートであるとは思わない。ただ一口にお笑いと言っても「こいつは芸人として優れてる」と評されるための要素は多様にあって、簓は、零や左馬刻と渡り合えることや事務所の芸人たちへの接し方、ラジオの回し方、盧笙の「あの競争の中でも上手く立ち回っとった」等々から推察するに、「周囲が己にどういう役割を求めているか、どう振る舞えば最も円滑かを読み取り弁える」ことについては、天賦の感覚があるように思う。そこを考え、計算して笑わせにかかるのが簓なら、盧笙を天才とした定義の上ではその逆を成すことになる。笑わせるため、己が何を求められているかをヒントとしてキャッチし、計算や思考をする――この過程をどう解釈するかが、白膠木簓を形容する単語が人によって分かれている大きな要因だと思う。まあ、盧笙に関しても然りだが。ここまで来ると、天才キャラが好きとか、何も考えて無いように見えて実は……みたいなキャラが好きとか、そういう嗜好とかに関わる問題になってくるから、公式からドカンと叩きつけられたりしない限りは、統一する必要なんて無いと思う。だからここからは私が天才をどう捉えるかというところが多分に含まれる話になるが、やはり私は、ドラパを経てもラジオを経ても、「白膠木簓は天才である」と思っている。考えて考えて、それで多くの場合計算通りにたくさんの人に笑いをもたらせるならば、それは“人を笑わせる芸”の神様に愛された天才と呼びたい。尺とか、コンプラとか、ターゲット層とか、場合により色々と制約がある中で「芸」を切り売りしなければならないこともある世界への適合性という点においても、天才と言う表現に違和感は無い。それに―これは少し穿った見方なのかもしれないが―彼が笑いの天才、あるいはそういう単語に足る何かしらを「持っていない」と断言するのは、簓自身よりも誰よりも、盧笙に対して残酷なことを言っているような気がしてしまう。盧笙が抱いた「養成所の時から、お前はすでに何かを持ってた」という感覚を、疑うべきではないだろう。ただ、じゃあ休みの日は家に閉じこもり先輩や話題のコンビのDVDを擦り切れるまで回してボキャブラリーや間合いの研究をし、ペンだこができるまでネタ帳を黒くしていく白膠木が解釈違いかというとそれは逆で、していたらめっちゃいいなと思う。「人を笑わすことが何より好きな性格」の男がそういう研究を苦にするとは思い難いから、していても全くおかしくない。簓のプロフィールについてもうひとつ言及すると、このトピックについて、「舞台上では天才的な話術で人を笑わせられる」という箇所の“的”の1文字が、オタクの想像に余白を与えている部分だろう。サイレント変更常習の公式であることを考えると(すまん)あえてでもないのかもしれないが、“天才”と記していないからこそ、妄想の余地がある。簓は天才の感覚で「今この場で己に求められている立ち回り」をとらえ、それに沿って喋りやネタをやるにあたっては、天から与えられた感覚より、努力や研鑽に裏付けられた話術で臨機応変に口を回している、と考えることもできるわけだ。ハァ〜強い。推し、強すぎん? 大好きすぎる……幸せになってほしい。本舗3人で……。

すっかり締め方を見失ってしまった。長々と色々書いたが、これを押し付けるつもりは毛頭無いと、最後に改めて記しておく。ヒプノシスマイクは、正直、供給の頻度が小さい。それに加え、オオサカ・ナゴヤから入った所謂新規層(私もである)すら少なくない割合で察しつつあるほど、若干(?)不安な脚本で進展する。そんなコンテンツの在り方に関わる諸々もあって、二次創作が台頭しがちなジャンルだと思う。解釈はその分だけあって、このnoteもそのひとつでしかない。だが、刀…乱…の某邪道な脇差くんの件をはじめ、今のpkmnやら鬼…の創作界隈を見ていると、人口の多いジャンルでキャラが一人歩きする勢いって、割と馬鹿にならないなぁと感じる。簓を合鍵複製サイコパスと思うのも解釈のひとつに過ぎないのだけど、たくさんある彼の特徴やエピソードの内のひとつとしてならまだしも、そこだけを必要以上にピックアップされて、彼が全くデリカシーの無い人間であるかのように周知されたりなんかしたら、やっぱりちょっと嫌だなぁと思う。こんな壁打ち垢の記事に影響力があるなんて思わないが、自分の中の彼らへの愛と、それに基づく解釈を言語として纏めたかったのも併せ、できるだけ、公式から与えられている情報を論拠として、変に飛躍しない範囲に留まるよう努めたつもりだ。あれ? また終わらせ方わからなくなってきた。お前はいつもそうだ。

何はともあれ、どついたれ本舗が好きなのだ。あゝオオサカdreamin' nightとaikata back againを信じろ。

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