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今だからこそハンク・アーロンの凄さを見返そう

大谷翔平、エンゼルスも日本人初のハンク・アーロン賞受賞へ後押し 「大谷に投票した」ファン続々

大谷翔平がハンク・アーロン賞の最終選考に残った。
日本人にとっても王貞治という存在を語る際に必ず出てくる男の名前であろう。ハンク・アーロンという打者は通算本塁打は現在1位とも2位ともいわれている。(なぜこう書いているのかは察していただければ)
日本人にとってはその程度の認識であることのほうが多い。それもそうだろう。王貞治が本塁打だけでなく打率も残している選手であることを知っていても燦然と輝く本塁打があるためにそれ以外の姿をなかなか想像しずらいように、ハンク・アーロンは755本塁打、ということばかりが印象に上がり、どういう選手であったのか、はあまり語られることがない。

だからこそあえて今ハンク・アーロンという選手がどうであったか。なぜその年最高の打者に与えられる賞が彼であるのかを改めてみてみたい。

1,755本塁打

今更語るわけでもない彼の755本塁打。
王貞治が彼の記録を抜いた時によく出てくる数字だからハンク・アーロンの数字としてこれだけは覚えている、という方は少なくないだろう。野球史を扱っていない人にはこれだけでも十分覚えているというものだ。
しかし彼がシーズン中何本本塁打を打っていたのかを知る人は少ない。
意外なことに彼は50本塁打を打ったことがないのだ。

彼の最多本塁打は1971年の47本。
なんと37歳にしてこの本塁打をたたき出している。
この年はアトランタ・ブレーブスにとって大きな変化の年であった。
昨年までファーストを守っていたオーランド・セペダが膝の故障で離脱、サードのクリート・ボイヤーが活躍できずリリース。48歳のホイト・ウィルヘルムやルイス・ティアントといった時代を代表する選手がどんどんリリースされていったタイミングであった。
そのため元来外野であったアーロンがファーストに回り71試合出場するという事態に突入していた。その時に打ったものが彼の最多本塁打なのだ。

意外に思われるだろうが彼は一度も50本以上本塁打を打ったことがない。
選手としては引退も見えてくる三十代後半にキャリアハイをたたき出しているのだ。
この年のホームランダービーは2位。一位はピッツバーグ・パイレーツのウィリー・スタージェルが放った48本。あわよくば本塁打王であった。

意外かも思われるかもしれないが彼は本塁打王をさほどとっていない。
1957、1963、1966、1967年の4回のみだ。王貞治の15回と比べても少ない。
で、あるのにも関わらず彼は通算成績一位という偉業を成し遂げている。

では何が優れているのかというと、彼のシーズン平均本塁打数が32.8本という数字をみればわかるであろう。
逆に彼が20本塁打を割った年を数えてみよう。1954年の13本、1975年の12本、1976年の10本である。彼のデビューが1954年、引退年は1976年であるからその近辺だけなのだ。
彼はシーズンに50も60も打つような秀でた長距離打者ではなかったが、本塁打を打つ選手として安定感に長けていた。これが彼の本塁打の特徴である。

2,本塁打を圧倒する打率、打点

ハンク・アーロンは首位打者を2度取っていることを知る人は少ない。
それは王貞治が5回も首位打者をとったことが本塁打に比べて地味と感じてしまうようなマヒした感覚に近い。
実はハンク・アーロンは首位打者争いをかなり演じていたりする。
相手はロベルト・クレメンテ(PIT)、マティ・アルー(PIT)、ビル・マゼロスキー(PIT)といったザ・ファミリー時代のパイレーツ軍団、リッチー・アシュバーン(PHI)、ウィリー・メイズ(NYG→SFG)、アーニー・バンクス(CHC)と激戦区を戦い抜いている。

そもそも意外と思われるかもしれないが彼の初タイトルは首位打者。22歳の1956年、ケン・ボイヤーや前年の新人王ビル・バートンを抑えて.328で首位打者をとっている。
ちなみにこの年の本塁打王はデューク・スナイダー(BRO、現LAD)の43本。ブルックス・ロビンソン(CIN)、ジョー・アドコック(MLN)、エディ・マシューズ(MLN)などに差をつけられている。
どちらかというと本塁打というよりは打率重視の中距離打者のような成績だったのだ。

実際彼はミルウォーキー・ブレーブス時代ではチーム本塁打という点ではエディ・マシューズやジョー・アドコックに譲っていることのほうが多い。
エディ・マシューズは本塁打王2回、通算512本の大打者。波こそあるもののジョー・アドコックも通算336本という時代を代表する打者。
彼らの打棒もさることながら本拠地カウンティ・スタジアムの大きさも影響するだろう。センターは402フィート(約122.5メートル)だが左翼315フィート(約96.0 m)、右翼315.37フィート(約96.1 m)と存外狭い球場であったことも関係しているだろう。
なお、後楽園球場は両翼87.8m、センター120.8mということだから狭いとはいえども一方的にカウンティスタジアムに負けているわけでもない。日本の球場は狭い、とよく揶揄されるがその考えでいくとミルウォーキーの本拠地はヒッターズパークであったといえよう。
なお、両翼330フィート(約100.6 m)、中堅395フィート(約120.4 m)のドジャースタジアムが当時広いといわれ、年齢的に落ちてきたブルックリンの打線のことも含めてスモールボールにしたといわれるくらいなので実際はアメリカの球場が一方的に広かったわけでもなかったとみてもよい。

これがアトランタ移転後になると少し事情が変わる。
アトランタスタジアムは両翼330フィート(約100.6 m)、中堅402フィート(約122.5 m)の大型球場。ホームランを打てる打者も限られており、エディ・マシューズやジョー・アドコックもいない。
打線の要になることが多くなるため打率を少し落としながら本塁打を狙うスタンスに変えている。
後述することになるがアトランタに移籍した1966年、67年は二年連続で90以上の三振をしてしまうなど、コンタクトヒッターであった彼では珍しい光景が生まれてしまう。これもまた彼の取り巻く環境の変化から来たものであろう。
それゆえに本塁打の量は変わっていない。打率が少し落ちながらも本塁打はミルウォーキー時代と変わっていないこの柔軟さが彼の強みでもある。
そんな彼の通算打率は.302(12364-3771)。そして通算長打率.555。彼が本塁打を量産するだけの選手ではなかったことをこれ以上なく表現している。
そんな彼の通算安打数は歴代三位。いかにハイアベレージヒッターであったことかがよくわかる。

そして一番知られていないことではあるのだが、ハンク・アーロンは通算打点MLB一位である。
アルバート・プホルスが通算一位に迫ったために記憶している人も少なからずいるだろうが結果抜かれていない。日本では
ハンク・アーロン≒本塁打
の印象を持つが、彼の真価はどんな状況でも打点を取ることができる得点力の高さであり、その得点力の高さに付随してホームランという長打力があるといってもいい。
シーズン打点100超えは11回。うち打点王4回。80打点に限定すると18シーズンという怪物ぶりで、通算打点記録に関しては王貞治の2170を上回る2297。

ここだけでもハンク・アーロンの打者像が見えてくる。
確かに本塁打をよく打つのだが、打率も高く、とにかく得点圏においては無類の勝負強さを発揮する。そしてそれを20年近くハイアベレージで残している、まさに打者として完成された選手であったのだ。

3,驚異的な三振率と四球率

そしてハンク・アーロンがいまだに最高の打者の一人と扱われるゆえんは打撃三冠からも察せられるが、一番すさまじいのは三振率であろう。
彼の打席数は13491だが三振は1383。十打席に一つしか三振していない。
単純に計算すると三振は三試合に一度ほどとなる。
そして四球数は1402。同じく十打席に一つは四球が出ている。同じく三試合に一つは四球が混じる。あくまで平均値なので敬遠や調子の波を考慮しないにしてもこの安定感はすさまじい。

ホームランを打つ打者、という印象で見てしまうとそれに付随する三振数があるがこれがハンク・アーロンにはない。シーズン100三振をしていないところにもそこが見受けられる。
選球眼がよいとされていたあのバリー・ボンズですら1539三振をしている。それも22シーズンでの成績だからハンク・アーロンの選球眼含む三振しない力のなんとすごいことか。

恐るべきは13491という歴代三位に相当する打数を持ちながら三振数は歴代122位。その上にいるのはピート・ローズ(CINなど)、カール・ヤムトレムスキー(BOS)しかいない。あのプホルスですら13041打数だ。
それでその三振数はもはや脅威というほかない。

ハンク・アーロンが打席に立てば何かしらボールにバットが当たる。三振を見れるほうが稀、というような選手なのだ。
その本塁打数、打率から考えてそのすさまじさは筆舌に尽くしがたい。とにかく当てる打者なのだ。

4,「ベーブ・ルースを忘れてほしいとは思っていない。ただ、私を覚えてもらいたいのです」~終わりに変えて~

最後にその人柄について言わなければならない。
これほど優秀な選手であったのにも関わらず彼はおごり高ぶったようなコメントを残していない。
常に紳士的に接し、誰からも愛される選手であった。

1973年、彼がベーブ・ルースの714本塁打を超えるかという時だ。1973年は黒人解放運動もひと段落落ち着いたものの、まだ強いしこりが残っていたころだ。それゆえに黒人の彼がかのルースの記録を抜くことを拒んだ白人も少なからずいた。
それゆえに身の危険も脅かすような激しい脅迫もあったのだが彼はそれをひた隠しにしている。
しかしこれに触れる機会があったところ、多くのファンが彼へ、それこそ白人黒人分け隔てなく応援の手紙を送ったというエピソードがある。
彼は黒人である前にメジャーリーグのヒーローであった。それがカラーラインを突き破ったのだ。かのジャッキー・ロビンソンがカラーラインを破り、英雄となっていったように、彼は野球でカラーラインを突き破っていった。

ジャッキー・ロビンソンはドジャースがブルックリンから離れる際もニューヨークに残ることを選択し引退をした。その後公民権運動に参加していく。彼の残した自伝が「私は何もなせなかった」は彼が野球を愛していた黒人ではなく、野球を利用して成り上がっていったことの示唆でもある。元々UCLAでスポーツ万能だったロビンソンは別段野球にこだわってはいない。二グロリーグに所属していたことと、第二次世界大戦や太平洋戦争で選手層が薄くなったメジャーリーグの時代に合致したからこそ生まれた時代の寵児であり、野球に報いるようなことには至らなかった。
彼はメジャーリーガーではなく、黒人社会を憂うアメリカ人であった。そのアメリカ人が時代に飲み込まれて英雄になったというほうが正しい。

しかし、ハンク・アーロン、さらに言えばウィリー・メイズなどの黒人は黒人社会を憂うアメリカ人である前にメジャーリーガーであった。
アメリカに流れる大リーグの歴史と血に敬意をしながらプレーし、大記録を重ねる一人のプレイヤーでしかなかった。

だからこそ彼らは野球選手であることを大切にしたし、ベーブ・ルースの記録も敬った。それはメジャーリーグという舞台を踏み台にしたジャッキー・ロビンソンとの明確な違いだ。
ジャッキー・ロビンソンなくしてアメリカの黒人解放運動はなかったといわれるが、ハンク・アーロンのような真摯な黒人がいたからこそメジャーは多くの人種、血を受け入れるようになっていく。それはアーロンが稀有な打者だったからではない。彼は真摯なメジャーリーガーだったからなのだ。

1999年、ハンク・アーロン賞は生まれた。
その年最高の打者に与えられる栄誉として設立された賞は多くの選手を招き入れた。
それは成績だけでなく最後まで紳士であったメジャーリーガー、ハンク・アーロンを称えてであることを忘れてはならない。

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