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「学校」という場所で起きていること

夏休みが終わり、コロナ禍での2学期が始まった。この時期、「子どもの自殺」が心配される。スクールソーシャルワーカーとしても、子どもたちへ学校に行きたくないときは学校に行かなくてもいいよ。と伝えたいし、一緒に考えようと伝えたい。行きたくないと思ってしまう原因は「学校」という場所の中で様々ある。そのひとつとしてスクールソーシャルワーカーとしての活動の中で教員が発する言葉に違和感を覚えることがある。子どもたちが教員の指導について「なぜやってはいけないのか」という言葉に対して「口答えはだめ」という指導。大人の言うことが正しいというメッセージが少なからず学校の中にはある。子どもたちが危険を伴う行為をしようとするときはあれば、そのことに対しての指導という場合あるが、教師と生徒というアンバランスな力関係、子どもが一人の人間として認められていないことの象徴的な例だと感じている。社会の中では許容されることが、学校の中では許されないことも多く、集団の統制や大多数の価値観を優先して多様な価値観を認めない雰囲気があちこちの学校にある。こんな学校はとても生きづらい場所だ。こんなに生きづらく、一人一人が大切にされていない学校に行きたくないと発信したら、それはおかしなことだと言われ、責められることもある。「不登校児童」というレッテルを張られる。そのうえ、学校に行かない子どもを育てた家庭の養育の問題だと言われることさえある。今、子どもたちひとりひとりの安心の学びのために「学校」のあり方を見直す必要が常にある。口答えをしてはいけないという指導ではなく、なぜそう思うのか、疑問に対して一緒に考える姿勢や雰囲気が学校にあることこそが一人一人を大切にすることに繋がる。それが保障されずに、ひとりの人間として学校に安心できる環境がないなら、決められた学校じゃない学べる場所に行くことや安心できないからこの学校には行かないと決めることは子どもたち一人一人が持っている権利だと思う。スクールソーシャルワーカーとしては個の学びの保障として、子どもの権利を守ることも大切だけど、学校の体制や雰囲気が変わるように学校へのアプローチをどうするか、という視点も必要だと感じている。

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