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ただ一つのタイトルなんて本当は無しでいい

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いつもいつも、一つの一貫性のある事柄に集約できるはずなどないのに、なぜたった一つのタイトルを決めなければならないのか。
たった一つのタイトルをつけるのは、もはや作品に呪いをかけるのと同じようなものです。
何の事柄にも回収されない、全てを意味していて、何も意味していない、そんな魔法の言葉を与えない限り、呪いを回避する手立てはありません。

それまで、どこまでも無限に語れるものとして向き合っていた、色や質感や形のあり方が、言葉をつけることで途端に限定的になることに、いつも大きな安心と悲しさを感じます。
それまではもっと多くのことを知っていたはずなのに。

何にでも当てはまりやすい、普遍的で抽象的すぎる言葉を選ぶことも好きではないですが、定まらないと結局そんなタイトルになったりもします。
つまり、結局はなんでも良いのかもしれません。自分でやると、そうなってしまう。
とは言え、キャプションに「無題」だなんていうナンセンスな言葉を書きたくもないのです。「無題」ってそもそもなんなんでしょう?題名があることが前提の奇妙な言葉です。

「作品で表すなら言葉はいらない」などと言う意見はよく聞きますが、(専らこんな安直な意見も最近ではあまり聞かなくなっているかもしれないが、、、)
とは言え、我々は別に言葉を使いたくないわけではないのです。
我々は多くのアーティストと同じように、言葉をとても愛しています。ただ、一貫性のある一つの事柄に集約できないだけなのです。

一つの作品を生み出すのに、つまり、人間が一つの行動に到るまでには、様々な要因が存在します。ここでしているのはそんな当たり前の話。
その時の時制、季節感、時間帯、自分の置かれた環境、昨日何したか、今日何を食べたか、体調は?誰とどんな話しをして、どう思った?何に憤っているのか?何に納得したのか?
1つの行動、1つの作品に関わるキーワードは複数種ある。
大衆的で普遍的な視点と、主観的で個人的な視点と、両方が同時に存在するのが人間です。

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よく、どうやってタイトルを思いつくんですか
という質問を受けます。

特別私だけに起こることではないと思いますが、絵のタイトルを決める作業はいつも結構大変です。

搬入のため梱包する直前に、出来上がった作品とずっと睨み合って、そこで初めて言葉を絞り出す、ということが多い。
タイトル考えるのを忘れたまま発送してしまうことも結構あります。そういう時は記憶を頼りに考えるので、少し作品から離れた言葉になってしまっているかもしれません。

設営が終わるまでタイトルを悩んでいてもOKであると良いんですが、いつでもそういうわけにもいかないのが現実で。
もっと楽にどうにかなる方法はないかなといつも思います。

自分にはあまり語彙力はないので、好きな詩や漫画の言葉から引用して切り貼りして組み立てることもあります。
言葉のリズムもしっくりくると良いなと思うので、詩はとても参考になります。
それを言うと、どんな作家さんの詩や本を読むんですか?と聞かれることもありますが、そんなのは秘密です。

(蛇足ですが、作家は聞かれたことに全てはっきり答えないといけないなんてことは決してない、と常に思っています。作品について聞かれて、「答えられないならそこ曖昧なのかな」などと思われることを恐れて、ハキハキ何でも答えられることが美徳であるかのような風潮もありますが、答えたくないことは黙秘だっていいと思います。)

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1枚1枚の絵画に作品説明をつけることの苦痛は、絵画などは特に、特筆するほど一貫性のある物事など、ほとんど孕んでいないことから来るのかもしれません。(もちろん、作品によるとも思います)

学生の時に、京都芸術センターからヨーロッパのグループワークのレジデンスに参加しました。成果発表の展示では、個人作品も出品できるということで、絵を一枚出したのですが、その時、パンフレット用の作品コンセプトのテキストを書くように言われました。
芸大の日本画専攻では言葉数多くコンセプトをやたら語ることにはアンチな風潮があり、この時初めて学外の企画に参加した当時の私は、そういうテキストを書いた経験がほとんどありませんでした。
それでなんとか書いて提出したんですが、向こうのキューレーターに「これはアーティストステイトメントと書かれている内容が同じになっているから、作品コンセプトにはなっていないでしょう」と言われ、「作品コンセプト」と言えるものを書き直すように言われました。

でも当時の私は残念ながら、1作品ごとにコンセプトを考えて作るという制作ができるようなレベルにはまだまだありませんでした。そもそも、自分の制作の基盤(ステイトメント)をまだまだ探っているような時期で、作品ごとにコンセプトを持つとか、そういう感じで全く作っていませんでした。上手くそれっぽい言い回しでテキストを綴る能力もありませんでした。
というか、絵画でそんな風に1作品ごとのはっきり語れるコンセプト持って描いている人っているんでしょうか?

向こうからしたら、他の参加アーティストのほとんどが、インスタレーションなどコンセプチュアルな作品を作る人だったので、それらと同じ扱いで展示をまとめ上げる為に、そういったテキストが当然必要だったのでしょう。
この時の出来事は未だに釈然とせず謎が多いです。

「シリーズ」という言い方で、何枚もの作品に同じ作品説明文をつける、というテクニックも今では習得したので、それはできうると思います。
でもそういう風にまとめていくのはあくまでテクニックの一つと感じています。本当にそれを一貫性のある「シリーズ」と呼びたいかどうかは、作り手にとって本当はどうでもいいことかもしれません。

最近では、絵画につける作品説明は、私ではなくむしろ他の誰か鑑賞してくれた方に描いてもらう方が良いのでは、と感じることすらあります。
私自身がやっても、説明的であざとくなってしまう。それよりもずっと豊かな言い回しで感想を綴ってくれる方の文章を読むと、そんな風に感じます。

加えて、作家としての制作背景というか、世界を見ている視点や感覚の話なども、まぁ表現者ならみんな大体そうじゃないかな、と思う事柄も多く、
わざわざ、さも“自分にしかない視点”であるかのように振る舞って語るのもなんだかな、と思ったりしてしまうのです。

でも、何があって書いたのか記憶にない昔のメモの数々を見てると、そういうことが自分の中でそれなりにまとまっているのはやはり、自分にとっては大事で良いことであるようにも思います。
人に伝わるように語るかは別として。

とはいえ、私は言葉が好きです。それが持つ力を、とても愛しています。
作品と言葉が本当に呼応する関係で居られる状態とは、どんなものでしょうか。
そんな空間をいつも夢見ています。

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テキスト・スケッチ・メモ:町田藻映子

この記事について

インスタレーションアーティストの土居大記と、絵描き・ダンサーの町田藻映子によるコラボレーション展示の企画『濡れた地蔵』(@。展示は開催延期となってしまいましたが、展覧会までの間、2人のワークを写真と言葉の綴りでnoteに掲載してゆきます。

この企画のプロフィール記事はこちら➡︎ https://note.com/nurejizouproject/n/n847d5add36c9

プロフィール

土居大記 (Hiroki Doi)
学生時建築を学び、卒業設計を機にアーティストになる。”美しいは生ものである”という考えから制作している。
自然現象を素材としてインスタレーションやパフォーマンスを行っている。
常にまわりで起り続けている小さな変化を抽出して振り付けることが作品の主軸にある。それらの空間では気づくことが連鎖する。即興である。ダンサーとの共同制作も行っており、自身も制作の過程で身体表現のメソッドなどを経験している。
主な表現媒体はインスタレーション、パフォーマンス、写真、詩、製本。
HP https://www.hirokidoi.com/

町田藻映子(Moeko Machida)
京都市立芸術大学大学院修了。「生命とは何か、人間とは何か」を主題に、岩石やそれに関わりの深い生物・人の文化に焦点を当てて絵画制作を行う。かねてより、身体を通した主題へのアプローチを重視し、コンテンポラリーダンスと舞踏を学ぶ。『私が石ころを描き続ける理由』についてはこちらにまとめています。
個展「生きる者たちを想う為」(GALLERY TOMO(京都)2019年)、「名前を知らない死者を想う為」(GALLERY b. TOKYO(東京)2019 年)、「MoekoMachida Solo Show」(Marsiglione Art Gallery(イタリア)2017 年)等を開催。「シェル美術賞展2018」( 東京) 入選。「飛鳥アートヴィレッジ2017」( 奈良県明日香村) 参加。
HP https://www.moekomachida.com
Instagram https://www.instagram.com/moeko_machida/

※このnote記事上にある画像・文章の複製・転載はご遠慮くださいませ。
©︎ 土居大記・町田藻映子

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