日記:どちらにしても取捨選択

それなりの時間に帰宅したものの、ソーシャルゲームをずっと触っていたらこんな時間になってしまった。動画や本などは基本的にいつまでも見たり読んだりできるのに対して、オンラインで遊ぶことが前提のゲームは期間限定のイベントに遊ぶ時期を左右されるということが多い。それはテレビのような同時性をもたらすという点で、同じゲームを遊んでいる人との一体感のようなものを覚えることができるのだが、引き換えにどうしてもスケジュールが束縛されてしまう。いくつかゲームを掛け持ちしていると、ひっきりなしに期間限定イベントに追われることになる。これはあまり健全ではない気もする。

可処分所得になぞらえた可処分時間という概念を耳にする機会がここ数年でそれなりに増えたような気がしているが、体感としても自分が使う時間の配分に意識を向けることが多くなった気がしている(それが上手くいっているというわけではない)。休日に「何もできなかった」と悔いることはあっても、「何もすることがなかった」と嘆息することはほとんどないように思える。現代はインターネットに接続さえすれば楽しいことに事欠かないし、飛び交う情報量は以前にも増して膨大になっているという気がする。たくさんの出来事が濁流のように過ぎ去っては消えていく。1ヶ月前のニュースを自分は覚えているだろうか。正直言って自信がない。自分のことですら、1週間も前になれば怪しい。そして自分は世界の動向をあまり身を入れて追いかけてはいないから(自分のことで精一杯なので)、ふとした瞬間に流れていく情報の多さにいつも怯んでしまう。世界のスピードが速すぎる。

しかしそのような加速する世界に多くの人が疲れているのか、デジタルデトックスという概念も聞こえるようになった。目まぐるしく変わりゆく高速の世界から、ゆったりと少数のものに向き合う低速の世界へと、志向が変化しているのかもしれない。そうなると大切になってくるのは「何を選ぶのか」という取捨選択になる。あらゆる情報に手を伸ばしていた状態から、自分が本当に向き合いたいと望むものは何であるのか、いま一度問いかける必要がある。広く浅くか、狭く深くかといった対立軸にも、それは似ている。どちらにも長所と短所があり、自分に合っているのはどちらなのかという選択の過渡期に現代は位置しているようにも思える。どちらを選ぶにしても、あるいは選ばないにしても、得るものと失うものの両方があり、だからこそ自分の生き方を決めるのは難しいことだなと思う。

取捨選択の結果、今日はこのあたりで睡眠を取ります……。

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