日記:AM/PM以後
AM/PMという概念を理解した瞬間があったと思う。そのとき、世界の秘密を解き明かしたかのような感覚があった。
いまではもう当たり前のように使っているAM/PMの概念だけれど、昔はそうやすやすと受け入れることができなかったように思える。なぜ3時のおやつの時間のことを、大人は「午後3時」と言ったり「15時」と言ったりするのだろうか。「午前・午後」というものがあるらしいのだけれど、それでは「正午」とはどちらなのか。時折見かける「25時」のような珍妙な時刻はなんなのか。「午前・午後」と同じように「AM/PM」というものがあるらしいけれど、どっちがどっちなのか。そういうあれこれが、ふとした瞬間に理解できて、そのとき、少しだけ大人になった気がした。
思えば世界は不文律で満ちている。電車に乗るとき、人は何も言わずにドアの左右に分かれて降りる人を待つけれど、そうした慣習を体得したのはいつの頃だっただろうか。エスカレーターは左。エレベーターでボタンの近くに乗ったら開ボタンを押して人が降りるのを待つ。高速道路で車線を譲ってもらったら一瞬ハザード。渋滞に遭遇したらまたハザード。例示が交通系に偏ってしまったけれど、他にもたくさんあることだろう。
学校で習う訳ではないのに、知らないうちに人はそうした常識を身につけて大人になる。社会性を獲得する。でもそのことが、かつてAM/PMの謎を解き明かしたときの感動と同列かというと、そうではない。たくさんの見えないものに包まれて動いている社会というものを、どこか息苦しく感じてしまうのは、きっと自分がまだ大人になり切れていないからなのだという気がする。大人になれないことを振りかざす大人というのはなんだか恐ろしいので、自分もいい加減ちゃんとした大人にならなければならない気もする。それが社会。
この土日でせっかく机の上を片付けたのだけれど、今日は眠いので身体をyogiboのピラミッドクッションに預けながら、PCを膝(というか腿)に乗せてこれを書いています。とにかく態勢が楽なので無理せず日記を書けるというのが利点かもしれない。同じ姿勢を強いられるので(動くとPCが落下する)長時間の作業には向いていないのが難点だろうか。
実を言うと、自分の部屋には机はあれど椅子はない。では机に向かう時はどのようにしているのかというと、机のすぐそばにベッドが配置してあって、そのへりに座って背中をyogiboのクッションに預けることで椅子の代わりとし、机に向かっている。これでは机の高さが合うはずもない。うまい具合に机を作業しやすい配置とし、椅子を導入したいものである。机は良い。なんと物を広げることができる。なにかとものぐさでベッドの上から動くことなく作業(といっても動画を見ながらゲームをするくらいだが)をしてしまう自分ではあるが、画面に向かって長時間作業するのであれば、前述したように机と椅子が最適であるように思える。寝たままであれこれできないかと画策した時期もあったものの、結局はどこかで身体に無理が出る。ただ横になるだけでないのなら、人間は起き上がったほうがなにかと都合がいい。
しかし部屋を片付ける前に新たな家具を増やすわけにもいかないので、まずは椅子を書いた状態で机を最適な場所に模様替えしたいのだけれど、そうすると机があって椅子がない空白の時間が生まれてしまう。模様替えがかんりょうしたときに椅子が届くようにするだとか、そんな器用な調整ができればよいのだけれど、今までの人生を鑑みるに、自分にそういう器量を期待するのはやめておいた方がよさそうだ。その日の衝動で行動してしまうので、長期的な視点を持つのが苦手である。この日記も、半年続けようとかそういうことを思っていたわけではなく、ただなんとなく書き続けていたらそれなりの数になってきていた、というだけの話である。展望を持つのが苦手なので、それとなく前に進んでいけるように自分という奴を騙して扇動していければよいなと思っている。
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