日記:過去を振り返り、前を向き直す

GW突入です。イヤッホウ!


とりあえず調整して長期の休暇をとったけれど、しかしその期間の長さを利用してどこかに行くわけでもなし、予定はいくらか立ててはいるけれどどれも散発的で、それがGWである必要はあるのかどうかといわれればあまりない。でもいいんだ、自分で決めて動くこと、それが自由ってことなんだから。多分。


しかし去年の自分はどのようにGWを過ごしていたのだろうか。気になるので少し振り返ってみることにする。こういうことができるのも、日記を書いていたからこそではある。


2021/04/29(木・昭和の日)

部屋の掃除をしていたらしい。偉い。ちなみに今年の自分も、明日は部屋の掃除をしようと思っていて、なんら変わっていない。普段部屋を整理するという習慣がないから、こういう時間のあるときにしか重い腰をあげて掃除に取り組めないのだ。毎日あるいは毎週、コツコツと整理するのか、四半期ごとに1日がかりで部屋を片付けるのか、効率がよいのはどちらなのだろうか? せめて生活に苦ではない状態が保てていればよく、そして自分の閾値は相当に低いところにあるので、今のところはまとめて掃除するのでも良いという気がしている。


2021/04/30(金)

この日は平日だが、自分は休みをとっていたのだろうか。わからない。しかし和菓子屋に出かけたことを書いているので、それを信じるのであれば休みだったようだ。たまに当日の出来事ではないことを書いたりもするので判別がしづらいところはあるが、朧げな記憶を頼りにするのならば休みであった気がする。

覆水が盆に返らないように、もう手に入らない商品を嘆いても仕方のないことではある。消費者として商品が持続するだけの貢献を果たせなかった、といえばあまりにも自意識過剰なほどに責任を背負おうとしているようにも思えるけれど、しかし「自分がもう少し貢献できていれば変わったかもしれない」と思うことと、「どうしたって変わりようのない運命だったんだ」と塞ぎ込むことのどちらがよいのかと言われれば、少し悩むところではある。自分の選択によって未来が変わりうるという認識は、これから自分の手で道を切り開く希望にもなりうるし、運命づけられている出来事は避けようがないと捉えれば、あらゆる事象を従容として受け止めることができる。さて、心の安寧に寄与するのはどちらだろうか?

また二択を提示して振り返ってしまった……


2021/05/01(土)

努力の話をしている。自分はどうやら努力ができない人間であるらしいということは、日記を書き始めて余計にわかってきたので、自分が努力と感じないようなことを積み重ねていくべきなのだと思った。それを習慣と呼ぶのなら、ここで言及しているところに重なる部分もあるのかもしれない。あるいはこの日を境に、努力というものをそういうふうに捉えるようになったのだろう。努力は万人に与えられたカードというわけではなくて、それができる人もいるだけ、そういうふうに考えてみると、「頑張らなければならない」という義務感がいつしか呪いに転ずることからも逃れられるのだろうか。

この日は配信を見たりゲームをしていたりしていたらしい。なんて素晴らしい休日なんだ。それが一番いい休日なんだから。


2021/05/02(日)

流行りに乗せられるのも、流行りに流されまいとするのも、大勢に影響を受けているという意味では変わらない。泰然自若とした態度をとるのであれば、自分の性向がたまたま流行と一致することもあればそうでないときもあるわけで、常に流行に抗うというのもまた周囲によって自分が制限されてしまっているようにも感じる。

Watch Partyをしていたらしい。最近はめっきりやらなくなってしまった。オンラインでの会話は結構厳しいものがあって、会議のようなある程度論を整理しながら進んでいく性質のものならまだしも、複数の友人が集まって行う雑談などは、なかなか回線を挟んだラグが致命的になってしまうことがある。ましてやWatch Partyのような、1つのコンテンツを共有することによる同時性が肝要となってくる場合、少しずつずれていくと映像と乖離する側面があって、会話にばかり神経を割いてはいられなくなる。それでも、遠隔にいる相手と気軽に上映会ができる便利さは何物にも代え難いものがある。

テレビシリーズのレヴュースタァライトも見ていたらしい。めちゃくちゃ映像を見ているな。というかレヴュースタァライトの劇場版からまだ1年も経っていないのか? マジか……。今年の2月ごろに3度目の鑑賞に赴いたが、その時はもう随分と時が経っていた感覚だったが、劇場版の公開は2021/06/04であるらしいのでやはりまだ1年と経っていない。印象が強過ぎてかえって色濃い記憶になっているから、それが長い間思い続けてきたものだと錯覚してしまうのかもしれない。だが実際にはまだ1年経っていない。年を重ねれば重ねるほどに時が過ぎるのは早くなるものだとばかり思っていたけれど、しかし時間の密度の濃さによってはいくらでも遅く感じることができるのだと、そんなことを思わされる。


2021/05/03(月・憲法記念日)

レヴュースタァライトを見たり本を読んだりアンナチュラルを見たりしている。よくそんなに時間があるな。アンナチュラルもMIU404もめちゃめちゃ面白いので見てほしい。でもAmazon Prime Videoではちょうど配信が終了してしまったらしい。そんな……。

基本的に映像コンテンツは時間が定められているので、その時間を確保しなければ視聴することができない。逆にいえば、時間さえ確保すればあとは黙っていても進んでいくので、その点では能動的な理解が求められる読書などと比べると集中力を求められないともいえるのかもしれない(映像に集中力がいらないと言っているわけではなくて、あくまで別種のものなのだけれど、しかし個人的にはより精神的なハードルが高いのは読書という気がする)。

最近は動画も倍速で視聴したり飛ばしながらみたりすることもあるようだけれど、少なくとも自分は映画やドラマ、アニメでそれをしようとは思わない。作り手の意図をできるかぎり受け止めたいからで、それはきっと、かつて作り手の掌の上で転がされて心を揺さぶられた感覚が忘れられないからなのだと思う。転がされたい。


2021/05/04(火・みどりの日)

郷愁の話をしている。何をしていたんだこの日は。

懐かしさというのは誰かと共有されることもあるけれど、しかし突き詰めればそれは本人の経験に左右されるものであるから、自分の郷愁が他人のそれと完全に一致することはまずない。だから、誰かにとって大切な郷愁が、自分にとってはなんてことはない色褪せた過去でしかないことも往々にしてある。それが恐ろしい。誰かの郷愁を無意識に踏み躙っていやしないか。それをしてしまうのなら、自分が大切にする思い出もまた、誰かに蹴飛ばされてもおかしくないと思えてしまうからだ。だからある程度は距離をとらなければいけないのかもしれない。簡単には踏み込めない領域があって、過去とはその最たるものだ。


2021/05/05(水・こどもの日)

まだ本を読んでいる。すごいぜ過去の自分。今年も少しは本を読みたいが、しかし決意をするとそれが叶わなかったときに落ち込んでしまいそうなので無理せずに行うことにする。習慣で続く範囲で……。



たぶん去年のGWはここまでだったと思う。あとの2日は働いていたような気がする。しかし思ったよりも文化的に生きている。最近はあまり本や映画の時間を作れていなかったので、これを期にいくらか取り戻したい。MCUも途中で止まってしまっているから進めたいし……。


しかし、本当はもっとこういう振り返りをしていきたいのだけれど、まとめて振り返るとなるとそれなりに覚悟がいることだったりする。なので、今後も書くことが思いつかなかったときに1年前の内容を振り返るとか、そういうふうに過去の自分を利用していけたらいいなと思う。



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