日記:人生は続く
物語には終わりがある。映画ならスタッフロールが、漫画や小説なら後書きが来たらそれは終わりの合図。終わりのその先を見る権利は我々に与えられていない。それは想像するほかない。
物語の中で、登場人物はさまざまな出来事に遭遇し、なんらかの答えを見つける(ことが多い)。艱難辛苦を越え、友情・努力・勝利を経て、一つの正解とも言うべき何かに辿り着く。その答えと共に、物語の先を生きていくのだろう。
翻って、自分の人生はどうだろう。きっと人生に答えなどない。答えとは、複数の主体から普遍的に見出される共通項で括られた何物かであり、そしてそのようにして纏めるには、それぞれの人生が差異に富みすぎている。同じように見えたとしても、育ってきた環境や現在の人間関係、未来の展望など、どこかにきっと違いがあり、それらは蝶のはばたきのように連鎖して人生の色をまるで別物に変える。
それに、他人の人生を自分が生きるということはできない。外から見える誰かの人生は、その後ろにあまりにも多くのものを潜ませていて、全てを正確に推し量ることなどできない。そういう意味でも、人生を誰かのものと単純に比較することなど困難で、そこに共通する答えもまた見つからない。
人生に答えはない。「生きることは物語ではない」から。エンドマークのない世界を生きている。答えのない世界で、それでも答えを探しながら。
「大豆田とわ子と三人の元夫」を最後まで見た!最高…………。上の話と矛盾するようだけれど、「人生の物語」を強く感じた。
登場人物それぞれにそれぞれの人生があって、それが一つの何かに回収されていくということがない。そのままにそれぞれの人生であり続けている。ある意味で物語的な起伏や解答があるわけではないのだけれど、それ故に人生みたいな何かに対する真摯さが通奏低音として作品全体に響いている。
生活の中の大小さまざまな引っ掛かりが何度も繰り返し描写される。そしてその引っ掛かりが解消される訳ではなくて、それが共にある日々を生きている。環境も人も簡単には変わらなくて、ほとんどの場合はそういうものとして受け入れて生きていくしかない。そうやって何度も躓きながらも強く生きている大豆田とわ子たちの姿に、何度も励まされるような思いで追いかけていた。
最終回では、人生の在り方がさらに過去と未来に拡張されて描かれていて、ただただ圧倒される思いだった。本当に素晴らしかった……。
そのあと、家族が「カルテット」を見ていたので一緒に見たりした。改めてめちゃくちゃ面白いな……。自分が「この人怖いな〜」と思っていた人に同様の感想を抱いていて、まあその人は怖い雰囲気を演出されている感があるのでそう思うのはそれはそうなのだけれど、それでも同じような感想を聞くと少し嬉しかったりする。
同時に、「この人は過去になにかあったのかな」という感想も述べていて、それは自分にはなかった視点だった。自分は、怖さを覗かせる人がそれに連なる理由を持っているのかというと、別にそういうわけではないと思う性質だ。怖いと感じる人がいたとして、それはそういう人というだけのような気がするし、もっと言えばその人がたまたまそういう時だったんだろうなと思う。そこに背景の理由はあまり求めても仕方ないのかなと思う。
ドラマを見はじめるようになったのは最近で、そんなにたくさんの本数を見ているわけではないけれど、とても楽しい。というか、春クールも終わりの季節なんですね……。人生はクールが切り替わっても何かが明確に変わるわけではないけれど、それでも昨日とは違う今日の続きの明日を生きていく。終わりはまだ見えない。
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