日記:僕には世界が広すぎて

すべてを叶えることなどできないのだと、最近になってようやく気付き始めた気がする。

散々言われていることではあるけれど、現代は情報で溢れている。誰もが発信者となれる時代だし、あとは端末の高機能化で飛び交うデータサイズという点でも増加の一途を辿っている。音楽や動画のサブスクリプションサービスは当たり前となっていて、日々更新されていくコンテンツを追いかけようとしたら時間がいくらあっても足りない。単純に考えて、この世に1日で増える動画の合計時間が24時間を超えていたら消費は追いつかない訳で、それは自分が興味のあるジャンルに絞ってもとうにキャパオーバーだ。必然と優先順位をつける必要があるわけだが、あまりにも多いので迷っているうちに刻一刻とその日の就寝時間が迫ってくる。とりあえず簡単に見られるものから……と思って比較的短めである動画などのコンテンツを優先してしまい、映画や本といった時間のかかる媒体に向かう足は自然と遠のいてしまう。知人やSNSでフォローしている人がおすすめしていた作品にも手を出してみたいのだが、その順番はいったいいつになることだろう。話題になっているらしいというだけで作品を視聴しようとすると、その情報量に押し流されそうになる。どうしたものか。

学生時代は四六時中アニメやゲームの話ばかりしていた知人が、「最近アニメ見れてないわ」と零すのを何度聞いたか知れないし、その度に自分も同じ言葉を返す。日中を労働に費やしていれば時間とは当たり前に目減りしていくわけで、生活の維持に必要な時間を差し引いてしまえば、平日の夜というのはあまりに短い。では休日ならどうかと思っていても、労働の疲れを癒しているうちに気付けばサザエさんの時間となっている。日曜の終わりに週刊少年ジャンプが待っているという希望がなければ、何度となく絶望に身を焦がされてしまっていただろう(合併号の週はそうなっています)。


ふと、「あ、時間ないな」と思った。事実としては頭で理解していたつもりだったけれど、それでも心の片隅で「好きな作品を好きなだけ浴びて生きていこう」と信じ込んでいた。しかしそれは叶わぬ夢である。好きなものを選ぶのと同じかそれ以上に、好きなものを諦めなければならない。その純然たる事実が、ようやく目の前に理解できる現実として現れた気がした。

自分は特定の分野に対する知識があるという訳ではなく(強いて言うならアニメが好きな程度だけれど、それはこの時代において特徴でもないし別にマイノリティでもない)、だからこそというべきか、どんなものでも広く受容するべきだと思っている。小説も評論も漫画もアニメもドラマも映画も音楽も、何もかも読みたいし見たいし聞きたい。できることなら舞台芸術だったり美術館や博物館にだって行ってみたい。そして、そのように広く興味を広げていくことができる人も実際にいるのだが、どうやら自分はその前に限界がきているようだということを認めなければならない。認めたうえで、どうすればよいか考えるべきなのだと思った。少し的を絞ろう。



とりあえずは……本を読もうかな……。自分はいまこうして日記を書いているわけだけれど、適切な表現や論理構成を探してくるのに随分と時間が掛かってしまう。ならば先達から学ぶべきだろう。自分の文章は一文が長ったらしかったり逆接が多すぎたりでとにかく読みにくいという自覚はあるのだけれど、しかし思考を出力した時の言葉がそういうふうにしか紡がれてくれないという苦悩がある。だから、文章が上手な人を真似してどうにか改善できないかなと画策している。

そんな打算が半分と、あとは『喜嶋先生の静かな世界』に大きく心を打たれたのが半分で、森博嗣さんの日記を読んでいる。

わかりやすく坦々と綴られる視点が心地よくて、『喜嶋先生の静かな世界』に地続きなものを感じる。わかりやすい文章というのは平凡であるという意味では全くないのだけれど、自分はしばしばこの部分を混同しがちであるような気がする。引っ掛かりのある言葉ほど面白い、みたいな。それは一つの側面では間違っていないと思うのだけれど、しかしすべての文章に引っ掛かりを感じていては読み進められたものではない。バランスが大事というか、むしろ引っ掛かりなんてないように書かなければならないという気もする。それは最後に足されるスパイスのようなもので、本質はそういう小手先のところではないのだと思う。じゃあどうすればいいのかというと、これが全くわからないのだけれど……。

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