日記:仕事を背負う日々

いつもより少しだけ早く帰宅したので夜に日記を書いている。数えてみると実に1週間ぶりであるらしい。このまま朝or昼に日記を書くスタイルへと移行してもよかったのだけれど、それはそれで書き忘れてしまいそうなのが怖い。

noteの毎日更新の判定は0時を境目としているらしく(要検証)、日付が変わってすぐ日記を書くように心がけていれば、万が一忘れてしまっても起きてから次の0時が来るまでに時間を見つけて更新すればそれでよい。何事も三日坊主な自分がnoteの日記だけは毎日続けられているのには、いろいろと理由があると思うけれど(承認欲求が満たされること、習慣による強制力、面倒だったら数十文字で終わらせる、だらだらと言葉を連ねるのが嫌いじゃない)、一番大きいのは自分を信用せずにセーフティを大きめにとっていることかもしれない。何かを続けるには、自分を信じてあげることも大事だけれど、それと同じくらい信じないことも必要なのかもしれない。まあ、こんなことは、あとから尤もらしい理由をとってつけただけの戯言に過ぎないのだけれど。理屈と膏薬はどこにでもつく。

仕事は少し落ち着いたような気もするけれど、思い返してみるとまだやるべきことがいくつかあって心が重くなる。1つの仕事が終わりに向かっていくにつれてそのストレスは増していく。段々と取り返しがつかなくなっていくからだ。自分は何かと「あとからどうにでもなるだろう」と考えがちで、実際にそういう風に生きている節はあるのだけれど、それで人生がうまくいくとしても仕事はそうもいかない。なぜなら、人生とは(極端なことをいえば)自分のものでしかないのに対して、仕事とは他人と関わり合うことが必要不可欠だからだ。他者の需要を満たすことで対価を得るのが資本主義社会における仕事だというのなら、それは他者を巻き込むことでしか成立しえない。自分が他の人よりも少しだけ長けた領域があって、その傾斜が仕事をする能力を生む。仕事とは誰かの労力を肩代わりすることだ。それは、他者の責任の一部を背負うことでもある。仕事のプレッシャーとは、要するにその重みである。自分1人で生きていくのなら、こんなに身軽なこともないのだが、しかし仕事を介して得意と不得意を交換し合わなければ、人間の総体としての社会はここまで膨らんでは来なかっただろう。誰もが万能である必要はない。スペシャリストがそれぞれ集まって、なんでもできるようになっていく。自分はそのどこかの一部になっている。別にそれがモチベーションになっているわけでもないのだけれど、自分は役割を果たせているのだろうかと考えたり考えなかったりしながら、日々を彷徨って生きている。

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