日記:世界の果ての海
やりたいことリスト
机の掃除(物が溢れたため、少し窮屈な状態で画面を見つめている)
本を読む(とりあえず3冊ほど)
シャニマスのシナリオを読む(読めていないので)
楽譜の譜読みと音取り(歌う予定を入れてしまった)
MCUを見る(そう宣言してしまった相手が5人ほどいる)
水族館に行く(行きたいので)
家計簿をつける(収支をまったく管理できていない)
プログラムの勉強をする(いろいろ触ってみたい)
何か創作をする(作りたい)
会っていない人と会う(会いたい)
……
多いな……
こういうリストがずっと頭に張り付いている。1つ消化したらそれ以上に増える。もし自分が「死を間近にしてやりたいことをやっていく映画」の主人公だったら、全然終わらないだろうな。逆に、死が目前に迫っていると考えると、何が残るだろうか。とりあえずたくさんの作品に触れたいかもしれない。読まずに終わる漫画があると思うのは悔しい。最終回を見届けることができない作品もたくさんあるだろう。むしろそういった悲しみを味わいたくなくて、フィクションからは離れるのかもしれない。命が終わるときになってようやく、自分の人生と向き合える。そんなものなのかもしれない。
とりあえず、電車に乗り込んで海に行きたい。そういうのって、なんかそれっぽいでしょ。似たようなことはやったことがあるのだけれど、憧れってそれくらいでは消えてくれないものだから。
果ての海を見に行こう。それはきっと北だと思う。北へ行こう。北へ。
そしていつか辿り着く。果ての海。でもそれはきっと世界の果てではない。海の向こうにも世界は続いているからだ。その意味では、この世に果てはない。どこまで行っても回り続ける円環でしかない。
その場所が果てだと思えるのなら、そこが世界の果てである。じゃあ、自分はどこに辿り着けば世界の果てを信じられるのだろうか。きっと思い描いている果てはどこにもない。「ここではないどこか」を求めて彷徨うのが旅であるのなら、それはいつまでも終わることのない道行である。いまいる場所が「ここ」になってしまうのだから、理想とはいつも満たされぬ憧憬の中にある。
だからきっと、旅の果てにゴールはない。終わる場所は、帰る場所になる気がする。そうでなければ終わってもいいとは思えないのではないだろうか。旅は終わらなければならない。旅の終わりはきっと家路である。果ての海とは、きっと辿り着けないまま胸の中に広がり続けいていて、それでもいつか終わるときには、よく見るありきたりな光景の中で目を閉じていくのだと思う。それができればきっと幸福な人生なのだろう。わからないけれど。
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