日記:一人だけ針の長いヤマアラシ

『ジョーカー』を見ました。

公開された当時に結構話題になっていたなと記憶している。劇中で登場する階段が観光名所と化していることが問題になっている、といったニュースも見かけた。いわゆる「聖地巡礼」問題のようなものは、日本のみにとどまるものではないのだ。

『ジョーカー』は、元は『バットマン』に登場する悪役であるジョーカーが誕生するまでの経緯を描いた映画である。自分は『バットマン』の知識を持たないまま『ジョーカー』を見た。


劇中では社会の中の格差が物語の引き金となっている。母と二人、貧しい生活を送るアーサーは、突然笑いだしてしまうという発作を抱えながら日々を送るものの、ピエロの仕事をクビになってしまう。市長選に立候補するトーマス・ウェインとの格差や、電車の中で絡んできた証券マンとの格差など、アーサーはいたるところで社会の断絶に直面する。それはアーサーが悪いわけではなくて、社会が構造的に抱えてしまう格差ではある。だからといって、それでアーサーの生きづらさや貧しさが解消されるわけではない。その負の感情は、やがて貧困層を巻き込み、富裕層へと向けられていく。


一緒に映画を見ていた知人と話していて、「アーサーは愛情を受けて育たなかったという環境が悪かっただけではないのか」という話題になった。では、彼が受けられなかった承認を、外部の誰かが与えてやることはできるだろうか。具体的には、もしいま、自分の周囲にアーサーがいたとして、自分は彼に愛を与えることはできるのだろうか。

きっと、劇中の人物と同じように、「不気味だ」と思って終わってしまうのではないかという結論に至ってしまった。どのような背景を持つ人であっても、どのような事情を抱える人であっても、それが原因で差別を受けるようなことがあってはならない。それはわかっている。多様性は尊重しなくてはならないし、差別は断じて認めてはならない。

それを頭ではわかっていても、もし隣にいる人が突然笑い出したとして、その人に対して普通に接することが自分に可能とは思えなかった。きっと怯んでしまう。色眼鏡で見てしまう。そんな自分が嫌になる。

その人は愛されたいと思う望みを、他者が叶えることができない状況があったとして、そのとき自分には何ができるのだろうか。


「ヤマアラシのジレンマ」という言葉がある。互いに長い針を持つヤマアラシは、近づこうとしても針が相手を傷つけてしまうので、容易に距離を縮めることはできない。それでも、お互いの針の長さが同程度であるのならば、互いにちょうどよい距離を見つけられるのかもしれない。

しかし、一人だけ、針の長いヤマアラシがいたとしたらどうなるのだろう。周囲のヤマアラシは、針の長いヤマアラシに近づこうとしても、その極端に長い針に阻まれて近づくことができない。当の本人は、他者の温もりを求めて近づこうとしても、誰かを傷つけてしまうためにその望みが叶えられることはない。そんなヤマアラシを見つけたとしたら、自分はどのように振舞うべきか。或いは、自分がそのヤマアラシだったとしたら、温もりをあきらめるしかないのか。元の命題がそうであるように、この思考もまたジレンマに陥るほかない。


映画を見終わった後、たまたま通話した別の知人は、「針の長さが同じくらいのヤマアラシをみつけて、近づきすぎないとしても互いに存在を確かめうくらいの距離を保つ」のが良いのではないかと話していた。人間関係には様々な距離感がある。それは家族関係だったり、友人関係だったり、仕事での関係だったりする。近ければ近いほど、その人を幸福にするとは限らない。家族のように接近した距離感を苦手とする人もいる。そういう人にとって、温もりを確かめ合うほどの距離よりも、つかず離れずくらいの関係性の方が心安らぐものであったりするかもしれないのだ。

仮定の話ではあるので、どうしても曖昧な話にはなるのだけれど、人と人との距離感について思いを馳せる時間だった。


ところで、実際のヤマアラシは針を持ってはいるけれど、案外うまく近づいて寄り添っていたりするらしい。よかった……。

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