日記:残響が痛い
ライブの翌日はいつも喪失感に苛まれるものなのだが、今日はそんな暇もないくらいに慌ただしかった。といっても別段大きな何かがあったというわけではなくて、日常の濁流をいつまでも乗りこなすことのできない哀れな自分がそこにいるだけで、つまりは生活の騒音が楽しかった記憶をあっという間に飲み込んでしまったという、そんなよくある話にすぎない。
それでも、と昨日の光景をリフレインするために、帰り道でイヤホンを取り出して楽曲を流す。自然と手が無いはずのペンライトを握ってリズムを振りはじめる。振りかざしたときに不意に腕の筋肉が痛んだ。昨日はそれだけ力を込めて腕を振ってしまっていたのだろう。頭が忘れてしまっても、この身体は覚えている。だからこの痛みが愛おしかった。
「果穂ちゃんはタイムカプセルみたい」と、そんな河野さんの言葉が心に刺さって抜けない。私たちは大人になっていく。彼女たちとは違う時の流れを生きている。思い出が、もう届きはしないけれど、いつでもそばにあって力をくれるものなのだとしたら、彼女たちはずっと思い出のままなのだろう。その存在に誰よりも近いからこそ、そこにある差異すらもより大きく感じられるのかもしれない。自分なんかはある程度距離があるからこそ、いつだって離れてしまえる安全圏からその輝きを受け取っているだけに過ぎない。というか一定以上に踏み込むことを恐れていて、誰が担当なのかも明確に口にはできないでいるし、強い言葉を使って語ることも避けている。そこまで踏み込んでしまえば、きっと自分の心の中に分かち難く存在が癒着してしまって、いつかそれを失うときの痛みが計り知れないと思ってしまうからだ。そして、ライブに足繁く通っている現状では、もうそれも遅いのかもしれないと感じている。
喪失を恐れるのは、それが制御できない現実だからだ。でもそれはある意味で僕自分の弱さを示している。僕は多くの活力を受け取っている。どれも貰ってばかりの受動態だ。そこに自分が関与する変数はない。自分の働きかけによって受け取ったものだと思えるものがない。ただ口を開けて待っているだけの雛鳥にすぎない。だから、いつか巣から突き落とされてしまうことを恐れている。
もっと健康的な道筋はきっといくらでもあって、例えば創作活動を通して自分にとっての偶像を象るでもよし、ライブで担当のためのグッズに身を包んで応援に心血を注ぐもよし、そういう何か自分の意思で選び取った道があるのだとすれば、それは例えいつかの喪失が訪れたとしても、自分に残るものはある。ただ流されるままに享受だけを続けたとしたら、そこには何も残らないのかもしれない。さて、どちらの道を歩むべきなのだろうか。道は進むか退くかでしかない。
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