日記:草の中の鴨
昨日は眠気に耐えきれず意識が絶えて寝てしまった……。
日記を毎日つけ始めてから1ヶ月ほど経過した。大体、日付が変わる頃に書き始めて、1時間くらいかけて1,500文字程度に至ると区切りをつけている。自分がそれとない文章を書くのにかかる時間がそこそこ可視化されてきて面白い。
速筆で知られる作家の一人である西尾維新さんは、2時間で5,000文字ほど執筆されるらしい。小説なので日記のような文章よりも書く速度は普通落ちるだろうし、そうでなくても時速2,500文字というスピードには追いつけそうにもない。ちなみに2作目である「クビシメロマンチスト」は2,3日で勢いのままに書き上げられたものらしい。とんでもねえ。
日記を日付が変わってから書き始めているため、その1日の一番最初に投稿をしていることになる。なので朝になってから日記を書いても、日付の上では変わることがない。こうしておくと、書き忘れてもその日のうちに投稿すれば連続投稿記録が途切れることはないのではないか。noteの日付カウントが0:00区切りかどうかは知らないので、この日記を投稿してからその真実については知ることになると思うのだけれど。
しかし、連続投稿記録に縛られて、日付がかわってから日記を書かなければという意識が強くなってしまうのもそれはそれで自由がないかなとも思う。そうやって不用意に大きなものを背負いすぎると、それが途切れてしまった時のショックも大きい気がする。途切れたらやめてしまいそうな気がしてしまってよくない。でも「毎日投稿しよう」というモチベーションが連続投稿記録の継続によって一部支えられているというのもまた事実であり、それを手放してしまったときに自分がちゃんと日記を続けられるのかというのも怪しい。1ヶ月続いた習慣が、これから先も続いていくことを保証できるほど、自分という人間はルーティーンに対して誠実ではない。
やっぱりタイトルに日付を入れておけばよかったかな。その日の日記を翌日以降にも投稿可能なようにしておけばある程度時間に対して寛容な構造になる。公開した日付がわかるからいいかな……と思ってしまったのが過ちだったかもしれない。
それに付随する話でもないのだけれど、皆勤賞って大変だと思う。皆勤賞っていります?(中村慎森)社会人に認めらている有給休暇のような制度が学生に存在しないのはなぜだろうと考えてみる。集団で授業をしなければならない以上、そこに個人の休みまで計算に入れて設計するのは難しい。休みに対しては個別にフォローアップを図ることで対応している。
毎日学校に行くことはすごいことではあるけれど、でもそれに対して皆勤賞という栄光を用意してしまうのは少し息苦しい気がしてしまうのは自分だけだろうか。別に休んだっていいんだよ、と思うし、それと皆勤賞という制度が反目しあっている気がしてしまう。いや、自分がちょっと気にしてしまうだけで、皆勤の学生に対して賛辞を送ることと、休みを許容することは別軸であって両立可能な価値観というような気もするけれど。
今日(昨日か)は休みだったので散歩をしてました。Apple Watchの試運転も兼ねて……。
気付くと2時間ほど歩いていました。7kmくらい歩いていた。疲れた……。
草むらに紛れる鴨。
1km歩くごとにApple Watchが都度ペースを知らせてくれる。それが歩くことに承認を与えられたような心地がして嬉しかった。一人で歩いていても孤独ではないという心持ちになる。
夜は知人とオンラインで麻雀をしていました。2時半くらいで耐えきれず離脱、そして寝てしまった。なのでこの日記を朝に書いています。麻雀は去年覚えた。知人とオンラインで話しながらやるのにちょうどいい。
通話の中で、修学旅行の夜みたいな楽しさがありますね、と誰かが言っていた。オンラインでだらだらと時間が後ろになだれ込むとそうなりがちな気がする。
自分の修学旅行、高校の時はあまり友達がいなかったのではしゃいだりとかはなかったですが……。でも昨日は楽しかった。
ちょっとまた予定があるのでこの辺で……
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