日記:好きなものはなに?

たまに、自分のやりたいことがわからなくなる。

好きなことはたくさんある。本を読むのも映画を見るのも音楽を聞くのも好きだ。こうして日記を書くことも好きだし、かといってずっと家にいることだけが好きなのではなくて、外に出かけるのも好きだし、美味しいものを食べたり飲んだりするのも好きだ(それはみんなそうか)。でもそれらのひとつひとつに、自らの全身全霊を懸けられるかというと答えは否である。そして、本当にやりたいことというのは、そのような絶対性を持つのではないだろうかと無邪気に信じている。

実際はそんなことはないのだろう。「好きでやっていることだから」と語る人でも、そのすべてが楽しい時間で占められているのかというと、そうではなくて、地道で大変な積み重ねの上に輝かしい部分が乗っていることがほとんどなのだと思う。理想のすぐ下には、たくさんの現実が広がっている。

そのように考えても、自分が何をやりたい人間なのか、そういうことがわからなくなる。いや、これまで一度もわかったことはない。それはもしかしたら、未来を一筋に限定することを避けようとしていた結果なのかもしれないが、しかしこれと定めることのできない茫漠とした未来もまた心を暗澹とさせる。

例えば、自分は本を読むのがそれなりに好きだ。だから自らの趣味を読書と定めて、それのみに専心するのはどうだろうか。なるほど読書は私の好むところではあるし、それをひたすらに深めていくのはよいかもしれない。もしかしたら何か見えてくるものがあるかもしれない。

しかし、そう考えると同時に、ただそれだけを続けていけるほどの好意が自分の中に眠っていないのだろうことを実感してしまうし、それに読書を通して何かを得るという能力が人並み以上であるようにも思えない。だから、自分よりももっと読書が好きな人が、自分よりもたくさんの時間をかけてより深く読書の世界へと浸っているのだろうことを思ってしまうと、自分はそれだけにすべてを懸けることはできないという諦念が胸を支配する。自分よりもたくさん本を読んでいる人がいて、その人がきっと自分にこう言うのだ。「まだそれだけしか読んでいないのかい?」と(多分そんなことは言わないが、それでも仮定としてその問いが投げかけられたとき、反論できる自分がいない)。

趣味への耽溺具合とは単純に量で測れるものではないけれど、じゃあ質の面で自分が他の誰かに優る部分があるのかというと、それもまた否である。「好きこそものの上手なれ」とは言うけれど、自分よりも好きで上手な人がこの世にはたくさんいて、それを前にしたとき自分の好きを貫ける自信がない。だから自分の好きとはその程度で、そうして他の趣味に対しても同じ思考を繰り返していくと、最終的には自分のやりたいことがわからなくなる。

好きなことは他人と比べるべきでは無いのだと思う。それでも自分は、周囲の影響なしに何かを好きになることは出来なかったと思うし、だからこそ周囲と自分の「好き」を比較してしまう。私の「好き」には自己というものがなくて、だから流行りものだったり薦められたものだったりを簡単に好きになって、そしてその愛が本物に勝つ道理もなくて、次第に自分の空虚さが浮き彫りになっていってしまう。そうして空っぽな自分を満たそうとして、とりあえずそれなりに好きなもので心の空白を埋めようとする。そうやって砂上の楼閣を何度も積み上げては崩している。それでもいつか、自分が本当に好きなことを見つけられないかと、今日も色々と浅く手を出してみる。大人になればもう少し落ち着いた心を手に入れているかと思っていたけれど、今もまだ迷ってばかりの人生。

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