日記:そこに後悔があるだけ

自分にとって都合の良いことが起こるとき、とりあえずそれをドッキリなんじゃないかと疑ってみる。あるいは何か裏があるのではないだろうか、自分の知らない計画が影で動いていて、それに気付かぬ自分は愚かで滑稽なピエロなのではないかと、そういうことを考える。

もちろんそれは思い過ごしで、ほとんど何事もなく時間は過ぎ去っていくのだけれど、いつまで経っても人の気持ちを勘繰ろうとする癖は抜けない。でもそれで人の気持ちに敏感になるというわけではなく、むしろいつまで経ってもわからないままで、そしてわからないからこそ恐怖する。相手が何を思って自分と話しているのかがわからない。次の瞬間には愛想を尽かされて、積年の恨みつらみをぶつけられるのではないかという恐怖が拭えることはない。この世の誰もが自分を嫌っていて、愛される資格などないのだという諦念が、心の底のほうに張りついていて時折顔を覗かせる。

そうやってどこか諦めている節があるから、別に相手にどう思われていてもいいかと思って、自信に満ちた振る舞いをすることもある。けれどその態度は結局虚栄でしかなくて、いつか麻酔から醒めたときに一層酷い絶望が襲う。人の思いを気にしないでいられるのは夢の中だけで、現実はどこまでも人間関係の中にある。人の思いを無視することなんてできるわけもないが、しかしその重みは時折自分を窮屈にさせる。そうして再び諦念がもたらす虚無的な楽観主義に傾倒して、その揺り戻しで死にたくなる。でも人生ってそういうものなのかもしれない。希望と絶望をただ繰り返していくだけの構造なのかもしれない。

いつまで経っても自分は何もできないままだ。いずれその罪が裁かれるときが来る。そのときまで自分は平気な顔をしているつもりなのだろうか? いい加減、普通の人間の振りはやめたほうがいいのではないだろうか?


めちゃめちゃ暗くて面倒くさい文章になってしまったけど、私は元気です。元気であるが故に、無駄に頭が考える方向へと舵をとってしまい、それはいつの間にか反省会のようなものになっている。反省はしている……でもそれはそのときの自分の精一杯だったのであって、そしてそれを変えようもないと思ってしまうから、そこに後悔はない。やっぱり嘘だ、後悔ばっかりしている。だけど、それが次に活きるかというと、多分何も変わらない気がするので、それはただどうしようもない後悔でしかない。仄暗い感情がそこにあるだけの現象でしかない。これからも後悔を拾い続けて生きていく。自分はきっとそういう人間だから。

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