日記:繰り返す酩酊

土曜日は友人と浅草にいた。普段はほとんど酒を飲んでばかりの関係なのだが、珍しく観光地らしいところに赴いていたのだった。たまにはこういうのもいいだろう。同じことを繰り返すのもいいが、しかしあらゆるものが変化していく世界にあって、自分たちだけが変わらずにいられるというわけでもない。続いていくには、だからこそ柔軟に変化することも求められるのだと思う。マンネリからの逸脱。パターンの打破。

私は別の用事を済ませて15時ごろに合流した。浅草寺で待ち合わせて、さあどこへ行こうかという話になったのだが、寺のお堂は混んでいて、特に寺社仏閣に対して大きな思い入れがあるわけでもない私たちはなんとなくその場を離れた。観光地やテーマパークなどへ出かけるにあたり、その混雑を受け入れられる人間とそうでない人間がいて、我々はおおむね後者であった。観光地を大手を振って歩くような陽の光に照らされた存在を、どちらかというと眩しいと思う。陽か陰かでいえば陰の存在。だから、仲見世通りを歩くでもなく、自然と観光地然とした場所を離れて、そうして次第に居酒屋の立ち並ぶ通りに来て、もんじゃの店に入って酒を飲んでいた。

結局いつもとやっていることが変わらなかった。でも、変化を求めて一歩踏み出したことは何より大きいことだと思う。きっとこの挫折(というほど大それたものでもないが)を経たからこそ、次は勢いづいて大きく歩を進められるような気がする。もんじゃは最高に美味しかった。電気ブランも飲んだ。

しかし15時過ぎから飲みはじめたので店を出てもまだ明るい。結局それから3軒ほど飲み歩き、結果として翌日は二日酔いで死ぬほど頭が痛かった。その友人と会うのも昼から飲み続けるのも久し振りだったこともあって我を忘れて飲み過ぎてしまった。酒を飲みすぎて反省するのは何度も繰り返しているのに本当に懲りない。でもいい加減大人しく飲むことを肝に銘じなければならないと思う。いつか本当に取り返しのつかないことになる気がする。

そうして日曜日は昼まで寝ていて(予定のない休日は大抵そうなのでいつも通りといえばそうなのだが)、夜に別の友人から飲みに行かないかと声をかけられていたので、重い体でこれからの予定を組み立てていた。観たい映画がいくつかあったのでスケジュールを見てみると、ちょうどいい時間帯はすでに満席だった。別の映画の予約を抑えようとしていると、夜に会う予定の相手から「時間まで暇だから誰かいないか」との呼びかけがあったので応じることにした。映画はまた今度でも観れるし、それならいまこの瞬間の友人の暇を埋めるほうが自分にとっては優先されるように思えた。あと突発的な呼びかけに応じるのはなんだか学生みたいで楽しそうだなと思ったのだった。そういう憧憬がいつまでも消えてくれそうにない。しかし私は二日酔いで最悪のコンディションだったし、相手も特に空腹というわけでもなかったので、サイゼリヤでジェラートを食べながら共通の友人の話などをしていた。そうしているうちに段々と体が回復してきて、そのあと合流した友人の近況や昔話を聞きながら酒を飲んでいた。何度となく繰り返した楽しい時間。

いつまでこのままでいられるだろうか。いつまでこのままでいていいのだろうか。そんな葛藤も酩酊の中に消えていく。そうしてまたはじまる生活の日々を、幾許かの懊悩を抱えて、それでもまた次に会うときを思いながら生きていく。苦しいことはやまないけれど、楽しいこともまた待ち続けているようだった。

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