日記:希望の輪郭

昨日は「本を読む」とか言っておいて、ゲームをしたり動画を見たりしていたらあっという間に土曜日の午後は過ぎていき、気がついたら深夜になっていた。そこから少しでも巻き返そうと、夜を更かして読書に費やしてもよかったのだけれど、そうして睡眠のタイミングがずれていくことへの影響や、そもそもゲームをしていたことによる疲れから、日記も書かずに寝てしまった。昔は、1日を無為に過ごしてしまうと、せめてもの抗いとして夜を有意義に過ごそうとしていたのだけれど、最近はそういう拘泥もあまりしなくなってしまった。諦めが早くなった。それはいいことなのか、それとも悪いことなのだろうか。

積んでいる本はいい加減早く読まないとこのまま一生読めない気がするのでなんとか読んでいきたい。


オモコロチャンネルとカプリティオチャンネルのコラボ動画が再びアップされていいた。うれし……

特定の層にしか伝わらないニッチなジャンルでのクイズで、「なんでそんなことまで覚えてるの!?」と驚くのも楽しいし、悪戯心が遺憾無く発揮された突拍子もないストーリーを聞くのも楽しい。早押しクイズでは、読み上げられた中の限られた情報から答えを導き出す過程において、時には思考の跳躍が必要になる部分もあると思うのだけれど、一見関係のない事象を持ち込んで物語ることのユーモアにも同じような跳躍は認められるような気がして、だから両者のチャンネルは近隣的な性質を帯びていると言えるのかもしれない(これは適当に言っています)。


オモコロチャンネルもカプリティオチャンネルも、いわゆる「おじさん」と呼ばれるような世代の出演者が多い気がするのだけれど(そこにはある種の謙譲を込めた自称もあるとは思うけれど)、それを見て嬉しいと思う気持ちはどこから来るものなのだろうか、と考えていた。

それは、いつか「おじさん」になる自分が、幸せでいられる未来を幻視しようとしているからなのではないだろうか。そろそろ自分も「若者」という括りに身を浸している立場ではなくなってきていて、歳を重ねるごとに可能性が1つずつ失われていくのを感じてしまう。このまま時間という財産を順調に減らし続けて、残るものはなんだろうか。自分の両手には何もない。きっと今までは、未来という曖昧で空虚な希望を担保にして自らの平静を保っていただけなのだろうと思い知る。結局は積み重ねてきたもので戦うしかなくて、それを自分はしてこなかっただけなのだろう。

動画で見る方々は、ちゃんと積み重ねてきた人で、自分とは違う世界にいる。それでも、「少し先の未来」を重ねて見ることで、自分にも希望があるように感じられる。歳を重ねても笑っていたい。それが自分の人生の延長線上にあるとは信じられないから、別の希望を借景して当てはめているだけなのかもしれない。そういう視点で見ているのだとしたら、それはインスタントな救いにしかならない。そこにすべてを求めるのは間違っている。エンターテイメントとは、そこから得られる活力によって、日常を積み重ねていくための糧としての役割でなければ健全ではないような気もする。

じゃあどうすればいいのか? それはわからないけれど……

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