見出し画像

日記:1年続いた

昨日の日記でちょうど365日目でした。日記のマガジンは毎日投稿するようになる以前の日記も格納しているので数がズレていますが、とにかく1年続いたということです。読んでくださる方、ありがとうございます……。

それほど頑張ったという意識はない。動き出してしまえばあとは惰性だった。今は、止まってしまったら二度と動けなくなるという恐怖に衝き動かされている。というのは嘘で、今でもやっぱり惰性で続いている。特に理由もなくはじめた日記だから、いつか終わるときが来るのだとしても理由はないのかもしれない。

「1年日記を書き続けて何か得たものはあるか?」と問われても疑問符が浮かぶ。それよりも失ったものにばかり目が向いてしまう。それは時間だ。毎日日記を書くのに短ければ30分、長いと3時間近く、中央値はおおよそ1時間くらい掛かっている。それだけの時間を何か他のことに費やしていれば、もう少し得るものがあったのではないか? そう言われたら返す言葉もない。

じゃあ日記を書きはじめる前はもう少し生産的な日々を送っていたのかと言われるとそんなことはない。あの頃は今よりも家で過ごす時間が多かったけれど、その時間を自分が有効に使えていたというわけでもない。だから、日記を書くようになってその分の時間を失っていると思ったけれど、それは元々持て余していたものだったからよかったのかもしれない。何もしないなら、せめて何かを書いているほうがいくらか気も紛れる。

改めて、この1年で得たものを考えてみる。最初の頃よりも少しだけ日記を書く速度は向上しているかもしれない。でもそれは、頭の中の曖昧なままの思考を整理されていないまま書き殴ることに対して躊躇いがなくなったという話に過ぎなくて、文章のわかりやすさで言えば寧ろ低下しているようにも思える。

だから、これだけ文章を書いてきたことを盾に明日からライターの仕事ができるのかと言われればそれもNOだ。理路整然とした説明を綴ることと、ただ頭の中の思考を思いついた端から打鍵していくこととの間には超えがたい断絶がある。

どうして日記を書き続けているのだろう。以前に比べれば、多少は自分の思考を整理しやすくなったような気もするけれど、それも錯覚かもしれない。ずっと続けてきた日記を少しでも自分に有用なものだと思い込みたくて、色眼鏡でその効果を判定してしまっている可能性も高い。その分を割り引いて考えると、やはり日記を書くことにあまり意味はない。誰かが「日記を書き始めようかな」と言っても、「別にいいことはないよ」と口を挟んでしまうような気がする。他人の日記はとても読みたいので、個人的な興味からすればこの世の全員に日記を書いてほしくはあるのだけれど。

それでも日記を書いているのは、今のところそれがあまり苦ではないからで、だからやはり惰性にすぎない。それは直らない癖のようなもので、止めることのほうが負担がかかる。そういうものを指して習慣と呼ぶのだとしたら、日記はもはや自分にとっての習慣になってしまっていて、今更止めることができなくなってしまっているというだけの話なのだと思う。

でも最後に1つだけ、これだけはいいことだと言えるのは、自分の書いた文章を誰かに読んでもらえているという感覚は、何度繰り返しても嬉しいものだということです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?