日記:淋しさだけが存在証明

眠いと思ったら日記を書かずに寝るようになった。起きる時間は変わらないので、睡眠時間は伸びているはずだけれど、いつまでも寝ていたいという気持ちが変わることはない。寝ている間は穏やかな世界に浸っていられる。でもそう思うのは、いま自分が夢から覚めているからで、夢を見ている間は、「自分が夢を見ている」ということを意識したりはしない。目覚めた自分が現実を生きているのと同じように、夢の中の現実を生きている。現実があるからこそ、夢は夢だとわかる。わかってしまう。

夢に、もう会えなくなってしまった親戚が出てきた。記憶の中と同じ姿をしている。昔は自分のほうが年下だったのに、いつの間にかすっかり追い越してしまった。それでも夢の中のその人は、あのときと同じように頼もしくて、あのときと同じように柔らかな笑顔を見せてくれた。その顔が好きだったんだと思い出す。

目が覚めて僕は、泣きはしなかったけれど淋しかった。かつて埋めたはずの心の空虚が、いまも喪失のままであることを実感させられた。このまま起きようとは思えなくて、もう一度目を閉じた。幸運なことに夢は続いていた。でも次第にその人は夢に出てくる時間は減っていった。時が経つにつれて、淋しさを思い出すことも少なくなっていったのと同じように。

何度目かの再入眠と覚醒を繰り返して、ようやく体を起こす。朝の準備をしているうちに、夢の記憶は薄らいでいく。もう淋しさはない。胸に空いた空虚が、いつまでも覚えていることの証左だというのなら、自分はもう昔のことなんて忘れて生きてしまっている。残るのは、記憶の遠近法の果てに美化された思い出だけ。その笑顔を、声色を、表情の細部を、温度を、いつまでも覚えていたいから、今日もまた夢を見る。そうして訪れる束の間の淋しさだけが、かつてその人と過ごした時間が確かに存在したことを証明してくれるような気がする。

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