日記:運命を従容として受け入れる

月曜日から帰宅が遅くなってしまい、結果として何もできずに1日が終わろうとしている。正確には通勤の電車内や仕事の休憩中、そして風呂に入っている間でスマートフォンに触れ続けているので、それなりに何かをしてはいる。それでも、集中して本を読んだり映画を見たりという時間を作ることができていないのも事実で、「何かしたい」という欲求は常に絶えることなく胸の内で燻り続けている。

対策は2つある。現状を変えるか、目標を変えるか。そのどちらも、何かを諦める選択ではある。別にリソースに空きがある訳ではないからだ。いきなり1日が48時間になるはずもないから、自分がいま持っている手札をどう切るのかを考えなくてはならない。そしていまの自分に必要なのが選択と集中であることもわかっている。何もかも欲しがりすぎなので、いつまでも窮状にあえいでいることになる。

やりたいこともたくさんあるし、欲しいものも増えるばかり。すべてを手にすることはできないのだから、この両手におさまるものを愛するべきなのだと思う。


いま欲しいもの…………雪(好きなので)


テレビで、魚が工場で切り身に加工されていく様子を見ていた。自分がもし魚だったらと思うと怖くて仕方がない。生物である以上、ほかの生命を糧としなければ生きていけないということはわかってはいるものの、それでも自分の心臓がそういう営みの結果として鼓動を続けているということを改めて考えると恐ろしくなる。生まれてきた責任とか、そういうものがあるとは思っていないが、しかし対価を受け取ったらそれに見合う働きをしなければならないという現代社会の法則になぞらえていうのなら、自分はいままで与えられてきたものに報いることができるのだろうか?いつまでたっても不可能な気がしてくる。

たまたま自分がこちら側にいるだけで、あちら側でない理由などまったくない。だからそれがいつ逆転するのかもわからなくて、もしその時がきたら、大人しく受け入れるしかないのかもしれないと思ったりもする。苦痛は嫌だから抵抗するだろうが、しかし運命という意味では従うしかないのだろうなと考える。いまの安寧だけを受け入れて、そうでない方に賽の目が転がった途端に意義を唱えるのは理に適っていない。そういうものとして飲み込まなければならないものが、この世界にはあるのだと思う。ただし、反逆の権利は、いつだって誰もが有している。

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