日記:幸せな夢を見てしまったときの話
最近、アイドルマスターシャイニーカラーズというゲームのことを考えていることが多い。本当に考えすぎて、終いにはある日、夢に283プロのアイドルたちが出てきてしまった。
気がつくと僕は草原に立っていた。後ろからあさひが駆けてきて、僕を追い抜いていった。草原は緩い下り坂になっていて、転がっていくサッカーボールを追いかけているようだ。その後に続いて、冬優子と愛依があさひのことを追いかけて走っていった。冬優子は、あさひに向かって叫びながら。愛依は、そんな様子が楽しそうに笑いながら。僕もきっと顔を綻ばせながら、3人のことを後ろから追いかけていた。
また気がつくと、僕は今度は都会の何処かの街角にいた。アンティーカのみんなが、CMかPVかを撮影していて、僕はそれを眺めていた(プロデューサーなので)。咲耶はやっぱりカッコいいなあ、とか。結華は細かいところに気がついて、よく気を回しているなあ、とか。摩美々もマイペースなようでいて、実は周りに気を配っているなあ、とか。霧子もみんなのことを想っていて、その優しい空気が柔らかい雰囲気を作っているなあ、とか。恋鐘の無邪気な前向きさと直向きさが、アンティーカという関係性の支柱になっていて、推進力となっているんだなあ、とか。改めて彼女たちを目の前にして(?)、その輝きの大きさに触れた気がした。
残念なことに、夢はそこで終わってしまった。スマホで現在時刻を確認すれば、もう目を覚まさなければならない時間だった。欲を言えば、283プロの他のみんなにも会いたかったのだけれど。夢の時間は、その中にいる間は永遠のようでいて、醒めて仕舞えばそれが嘘であったかのように一瞬だった。
それは幸せな夢で、だからこそ目が覚めたとき、幸福な時間からの虚脱感で身体が動かなかった。心に乾いた涙が流れた気がした。月並みだけれど、あれが夢じゃなくて本当のことだったらなあと、強く思った。でも、今見てしまったのは夢で、どうしたって現実では無い。夢に見てしまったことで、その差を強く感じてしまった。
物語の存在は決して届くことはない。現実との間にはどうすることもできない隔たりがある。普段はそれを意識することなく接しているが、ある日突然、こういう風に思い知らされてしまう時が来る。それは、ゲームやアニメのコンテンツに限らず、何だってそうなのかもしれない。手が届かないことをはっきりと認識させられる瞬間。それをどうしようもなく悟ってしまう瞬間。別にコンテンツが悪いということは無い。いつだって僕はそうしたフィクションの世界から多くの活力を受け取っている。ただ、生きていく現実が虚構を押し潰してしまうように感じられるときが、時々訪れてしまう。
物語の世界、虚構の世界と現実とを繋ぎ止めてくれるものがある。それが多分、シャニマスというコンテンツにおいてはライブだったりするんだと思う。あのステージは現実にあるものだから。その存在は絶対に実在だから。僕は現地に行ったことは無いのだけれど、1stのBDを見たとき、現実と地続きで夢の中のような世界に終始魅了されていた。でも、いつかその夢からも覚めてしまう時が来るのではないかという恐怖に駆られる。いつまでも夢を見るままではいられないのだろうか。その時、現実に立ち向かえなくて、本当にどうしようも無い時だったら、もう自分は暗い絶望の中で冷たくなっていくことを受け入れるしかないのだろうか。
夢を見続けなければならないのだと思う。ずっと、夢の中に潜り続けるようにしなければ。醒めないように。あるいは、醒めないフリをして。でも、いつか醒めてしまうときのために、現実に夢が押し潰されてしまいそうなときのために、それに抗うための何かを手に入れて行かなくてはならない。物語を信じ続けるための何か。虚構の存在強度を保っていられるだけの何か。それが何であるのか、今の僕には理解できそうにない(分かっていたらこんなに長々と考えることもない)。
でもそれはきっと、自分の存在に結びつくような身近なものであるのだと思う。輝きの先を見据えるための、懐の中のコンパスのような。自分の側にあって、前向きな未来を指向するための指針のような。そうしたものが近くにあって初めて、現実の強度に負けない夢を信じ続けていられる気がする。目が覚めたときに持っている写真に、何も写っていなければ、もう涙を流す以外に何もできなくなってしまう。その写真に、確かに何かが残るように。夢を信じるためのものを掴みながら、夢を追いかけて生きていくしかない。いつか見た輝きに追いつくために、現実を少しずつでも積み上げていくしかない。そうしていつの日か、振り返らなくて済む日が来るまで。
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