日記:集まる理由はなんでもよくて

2年ほど前から、よくオンラインで麻雀をしていたグループLINEがあって、最近はとんと動いていなかったのだが、昨日久々に呼びかけがあった。しかし4人集まらないと開始できないのが麻雀というゲームの弱点で、様子を見ているとどうにも人数が揃いそうにはなかった。家で過ごすことが多かった時期ならいざ知らず、きっとみんながみんなの生活を生きているのだろう。そのことに寂しさを覚えないと言えば嘘になる。そうやって動かなくなったLINEやDiscordがいくつもある。

仕事が終わってLINEを確認すると、グループ通話が開始されていて、まだ通話には1人しかいなかったけれど、どうやら誰かを待っているようでもあった。帰り道、歩きながら通話に参加する。お互い、特に麻雀をする気はなく、たまたま暇になったので通話をはじめたというくらいで、なんとなく近況を話した。そうしているうちに、続々と通話に人が参加しはじめて、最終的には7人ほどになった。結構集まるんかい。

せっかくなので2半荘ほど麻雀をした。段々と眠くなって人が減っていったり、朝起きたら寝落ちしたと思しき人が通話に残っていたりするのも懐かしかった。そういうことも懐かしくなるような、それくらいの時は流れているのだと思った。

別に集まるのなら麻雀でも酒でも、なんでもよいのだった。オンラインで誰かを誘うなら麻雀などのマルチプレイなゲームだと都合がいいし、趣味も専門も異なる人間が実際に集まるのなら「ご飯でも行きましょうよ」が楽だったりする。ただ会うというのでは難しくて、私はいつも集まる理由を探している。

大学のときに入ったサークルも、まあ好きなことではあったけれど、それで全国を目指していたとかそういうわけではなかった。なんとなく入部して、その場所の居心地がよくて、離れるコストと天秤にかけたときに同じ場所にいることを選んだというだけだった。学生のときはコミュニティの重力がいまよりも強かったし、その非流動性がなければ自分はひとりでいることを選んでいただろうなと思う。ひとりで居続けることの寂しさはあるけれど、ひとりをやめることのハードルは、僕にとっては結構高い。いまも交流が続いている人たちとのつながりがないとしたら、誰かに会うことは計り知れないコストであり続けたと思う。

あの頃から変わったことも変わらないこともあって、別にいまが平和というわけでもないけれど、僕はただ慣れてしまったのかもしれない。生きていくには慣れることも大切だ。すべてに精神を尖らせていたら保たない。でも慣れることで見逃してしまうこともあって、そういうことがあるのだということだけは、せめて忘れないようにしたい。いつか陥穽に足をとられることになるとしても。

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