日記:時間があればどうなる
時間があったところで何ができる訳でもないけれど、それでも「時間があればなぁ」と思ってしまう。そうは言ったものの、先日お盆休みでそれなりにまとまった時間を与えられておいて、特に何をしたわけでもない己が身を省みると、こんな奴に時間を与えたってただ浪費するだけという現実を突きつけられる。それでも「時間があればなぁ」と思う。
これは「宝くじが当たったらなぁ」と思うのと似ている。ないものねだりをしているだけで、その不足が現在の自分の欠落感を形作っているのだと思い込んでいる。そうすることで自らの至らなさから目を逸らすわけだ。叶わない夢を描いて、それにずっと憧れたままでいられれば、自分の惨めさも仕方ないと思える。居心地の良い不幸に身を浸して、不満を言うことに満足している。だから結局、金銭や時間の不足が解消されたところで、何をするわけでもないのだ。
しかしまあ、金銭や時間を気にしなくていい状態って、それがもう理想の状態ではある。忙しなく働く都会の人間が、穏やかに暮らす農耕人に「なぜそんなに働くのか」と尋ねられて、「老後、穏やかな暮らしを手に入れるためさ」と答える小話があるけれど、人は究極そういう生活を求めている。手が届かないからこそ焦がれている。
時間があればなぁ。お金も。
そうやって夢を見ていても仕方がないので、現実的に打てる手を考えていくしかない。時間にもお金にも限りがあるので、やりたいことは自分にとっての優先順位で並べて処理していくしかない。自分にとっての優先順位は何か?
うーん。なんだろうな……。
やりたいことがたくさん並列で目の前にある気がしている。でもどこかに勾配はあるわけで、自分の中で整理がついていないそれをもう少し解体していく必要がありそうな気がする。自分は何がしたいんだろうな……。しばらく日記を書いていて、自分の心に整理を付けてきたつもりでいたけれど、しかしどうにも自分というものがどこまでもあいまいで、世界に混ざっていくような気がしてしまってわからない。
Xbox360版『アイドルマスター』をやっています。
この日の日記で、挨拶の選択肢の正解が毎回違う、と書いたのだけれど、どうやらこれは完全にランダムらしい。
ランダムなんかい!テンションとかが関係してくるのかと思ってたよ!
まあ現実に生きる人間だって、同じ挨拶に同じ反応を返すわけでもないしな……。その不確定さを反映しているのかどうかはさておき、ゲームとしては完全に祈る以外にすることがない。
しかしこのゲーム、毎週行動を開始するごとに朝の挨拶で3分の1のランダムを迫られるのに加えて、ファン人数を増やすためのオーディションを選択した週には、さらに「審査員への挨拶」と「オーディション直前のアイドルへの言葉」でも3択を迫られる。要するに、1週間の行動で最大3回もランダムな3択に挑まなければならない。多くない?
そうした3択を潜り抜け、アイドルとのコミュニケーションでは正解を導きだそうと苦心し、レッスンでは地味に難しいミニゲームを乗り越え、ようやく勝ち取ったオーディションの勝利はなかなか感慨深いものだ。アイドルとプロデューサーの頑張りを少しだけ共に味わっているような、そんな感覚がある。
アイドルとの会話で選択肢を選んでいたら、「こんな大変な思いをしてまでアイドルやりたくない」というようなことを言われて、心臓が跳ねた。レッスンをこなし、ステージに立って頑張っているのはアイドル本人で、その本人が「もういやだ」というのならそれを無理に続けさせることはできないと思ってしまった。結局、その会話では「トップアイドルになりたい」という彼女の情熱に火をともし、前向きな方向性でまとまったのだけれど、どんなにアイドル活動が順調に進んでいようと、そこに本人の気持ちが無ければ続けさせてはならないのではないか。プロデューサーの立場としても、現実でアイドルを眺めているだけの自分の立場としても、「アイドル」という存在を押し付けているという構造は拭えない訳で、そのことに自覚的でありたいなとは思う。
本人の気持ちを優先させることが正しいのかどうかというのは、自分の中で答えが出ていない部分がある。自分が自分の気持ちというのにまったく自信がないわけで、それに従うことでより酷い方向に転がってしまうのではないかという恐れもあるからだ。そういうとき、選択を誰かに預けてしまうことで楽になりたいという思いが全くないかと言えば嘘になる。
それでも、外部からあれこれ押し付けよるのは、本人からその委託があった場合に限るよなとは思う。それまではきっと差し出がましい真似でしかなくて、せいぜい「こういう話もあるよ」と可能性を提示するくらいにとどめるべきなのかなとは思う。
なんかふわふわした話になってしまった……。
このゲームではオーディションに合格してテレビ出演を果たすと、アイドルが歌に合わせてステージを披露するのだけれど、それを聞いていて「本当のアイドルみたいだな」と思った。原因は様々あると思うのだけれど、その一つが「歌が本人に当てられていない」ことがあるのかなと感じた。
曲は複数の選択肢の中から選ぶことができて、持ち歌の概念はある様なのだけれど、基本的にどの曲もすべてのアイドルが歌うようにできている。それもあってか、特定の誰かをイメージした歌詞になっていないように思う。それがかえって「アイドルらしさ」を醸し出しているのではないか。
例えばrelationsという楽曲はめちゃめちゃ横恋慕の歌で、これが「このアイドルの言葉だ」とはならない。でも現実のアイドルはそういう歌を歌う。恋愛禁止を課されたグループにいながら、めちゃめちゃ恋の歌を歌う。一人称が「僕」になっている、一見すると女性目線ではない歌とかを歌う。アイドルと楽曲の間には、こうした微妙なズレがある。
だからその楽曲がアイドルに似合っていないという訳ではなくて、むしろ非常に魅力的なステージになっている。悲恋を歌うアイドルを見て、そこにアイドル本人のものでもない偶像の姿を見る。ステージの魔法に魅了される。
765PRO ALLSTARSの面々はカバー曲として現実の楽曲を歌っていることもあるけれど、これにも楽曲とアイドルの微妙なズレから引き出される魅力があるのかなとも思う。歌がアイドルのことを表している必要はなくて、それらが組み合わさったステージに、見る者は勝手に偶像を見出していくという側面があるのかなと感じた。
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