日記:「決定」への恐れ

休みだ!

とりあえずは入っている予定に従って動く。なんだかんだで予定があるほうが迷わなくていい。何もない日は何もしない自分がいる。無理にでも予定を決めてしまったほうがいいのかもしれない。

そうなると、個人的なタスクをどのように予定に落とし込むかが重要になってくる。人に会う予定は、ただその時間にその場所に向かえばいいので楽ではある(準備を他人に頼りきりという側面もあるのでそこは治さなければならないとおもうけれど)。しかし「本を読む」「ゲームをする」「そのほか、気になっていたことに取り組む」のような能動的かつ個人的な性質を備えるものについては、ただ己の精神をどのようにそこまで持っていくかが重要になる。そしてそれは自分の苦手とするところでもある。

思えば、決定することを避けてきた人生だった。自分が何をしたいかも定まらず、進学や就職もそのときのなんとなくの志向で選んできた。世界は遍く可能性に満ちていて、その中からどれか1つだけを選び取ることが自分にはひどく困難に思えた。それでも進む道を選ばなくてはならないから、ひとまずはその時点で後悔が少なそうなものを選択する。でも、そうじゃない道に心残りがないのかといえばそんなことはない。

何か1つにすべてをかけることが自分にはできないのだと、心のどこかで感じ取っているのだと思う。これだという道を1つ決めたのなら、そこで勝負していくしかない。もしダメだったら? その道以外を捨ててしまったのだから、あとには何も残らない。そんな恐れが、自分を「決定」から遠ざけている。

もちろん、選んだ道を外れたからといって、何もかもを失ってしまうわけではない。むしろ、1つの道を奥深くまで知ることで、別の道に接続する部分も見えてくるだろう。それぞれのルートは完全に独立しているわけではなくて、あらゆるところで隣り合ったり交差したりしている。だからむしろ、決めることを恐れてどの道も進まないことが、多くの可能性を閉ざしているともいえる。

なんでもいいから、道を選んで進んでみると、見える景色もある。そしてそれはグラデーションのように広がっていくのではなく、ある日突然見えるようになるものでもあるから、その階段を越えるまでは「この先には進めないのではないか」という恐怖が壁になる。進むこと、乗り越えることはそういう恐怖との戦いでもあるのだけれど、無限に続いていく階段を1つ登ったときに見える世界は、空気が少しだけ澄んだような、あるいは解像度が上がったような、そういう変わり方をしているような気がする。そういう変化はあらゆる道に無数にあって、だから闇雲でもいいから進んでみることが大切なのだろうなと、大人になってから今更のように思う。

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