日記:自我はどこで分かれる

映画『花束みたいな恋をした』について、又吉直樹さんが話している動画。その中で、靴についての話題があった。

他人がどのような靴を履いているのか。そのことを気にかけたことがない。

そもそも自分は他者に対する関心が薄いように思える。自己中心的で、周囲の優しさにぶら下がって生きている。それでなんとかなっているのは奇跡のごとき事象なのだと思う。


人の顔を覚えるのが苦手だ。せいぜい20人くらいのコミュニティでも、全員の顔と名前を一致させるのに半年くらいかかったことがある。そもそも人の顔を見て会話するのが苦手だというのもあるが、所属したてのコミュニティでは相手が自分を認識してくれているのに、自分が相手のことを誰だかわかっていないということが多発する。単純に記憶すべき人数の違いから、自分が新規に入る立場であるのなら時間がかかるというのもわかる。しかし、自分が先達として新しい人を迎え入れる立場だとしても、相手が自分を認識する方が早かったりするので、自分はきっと人の顔を覚えるのが苦手なのだと思う。

それも他者への関心の希薄さから来るものだろうか。自我が未発達なために自分と他者を分かつ境界が曖昧になっているのかもしれない。赤ちゃんか?

思えば他者との関係性をちゃんと考えたことがないような気もする。環境に恵まれてそれでなんとかなってきたというのもあるのだけれど、精神が常に自分のことでいっぱいいっぱいだったというのが大きい気がする。とにかく自分のことをなんとかするのに精一杯で(それも別になんとかできたわけではない)、自分の振る舞いが他者にどのように受け止められているかというのをあまり考えたことがなかった。いい年齢なのに何を言っているんだ自分は。


要するに他人の気持ちをあまり考えたことがなかったということなのだが、しかし同時に考えても仕方のないことなのかなとも思う。他人の気持ちを考えるときには、まず「自分がその人の状況だったらどう考えるかな」ということをエミュレートするのだと思う。しかしそもそも自分と他人の思考回路は異なっていて、根源的なところで食い違っていたとするのなら、その思考をトレースするということは不可能である。それは悪いことではなくて、ただそういう違いが世界にはあるということをわかっていた方が、しなくていい衝突を回避できることもある。

しかし「他人の気持ちはわからない」ということは、「他人の気持ちを考えなくてもよい」ということにはならない。お互いがお互いの領域を冒さないようにすることで社会は構成されている。それをはみ出したものはルールにより罰せられる。そういう振る舞いを求められる。人の思考回路はある程度共通しているから成せることで、「ある程度均質な他者」への理解は社会を歩くうえで要請される。それをミクロに適用しようとすると歪みが生じるだけで、マクロ的(そうか?)には「他人の気持ちがわかる」ということは有すべき態度である。

他人の気持ちはわからない。でも、わからなければならないときもある。それが「普通」というやつで、厄介なことにこれは時と共に姿を変える。誰もが発信者となる時代において、多くの価値観が飛び交うようになったことで、この「普通」という不定形の存在も急速に変化を繰り返しているように思える。寄る辺としてあった中央的な概念を欠きつつあるのかもしれない。さて、そんなうねりの中で、他者という存在をどのように捉えるべきだろうか。それは思っているよりも困難なことなのかもしれない(投げやり)。




今日は一日中月姫をやっていたので良い日でした。少しだけ部屋の整理(というか山積みになっているものの場所を移しただけだが)をして何かを熟した気分になっている。何かとモノが捨てられない性分ではあるのだけれど、それにしたってモノが多すぎるので量をなんとかしないことには整理が進まないということに気がついた。何か上手い方法を考えよう……というか方法も何も、ただ不要品を処分すればよいのだけれど。それができないから部屋は雑然としていくわけで、単なる「断捨離」のような行為の枠を超えた、自らを納得させうるような決意が必要なのである。自分はいつも二の足を踏んでしまう人間で、だから一歩踏み出すための言い訳をずっと探している。



先日元に戻らなくなってしまった知恵の輪を再び初期状態に戻す道筋を発見することができた。しかし何故そうなるのかということが自分の中でわかっていないため、ひとたび忘れてしまえば再現不可能な手順となっている。パズルの理屈がわかっていれば、理屈から解答を導出することも可能なのだが、今の状態は単純に手順をそのまま記憶しているだけなので忘却に弱い。単語だけを覚えていてその意味を理解していない歴史用語みたいなものだ。

しかし知恵の輪の構造は複雑で、生きる上で培ってきた経験則のようなものが通用しない場合が多い。だからそもそも、知恵の輪の解法というのは忘れやすいようにできているのかもしれない。解き方を忘れてしまえば、また遊ぶことができる。一度解いてしまった知恵の輪の価値は薄れてしまうのではないかという危惧がぼんやりと心に浮かんでいたが、自分の残念な記憶力ではその心配は杞憂と言えそうである。きっとすぐに解き方を忘れて、同じように楽しむことができるような気がする。「記憶を消してもう一回見たい!」という欲求を叶えている。

難度が高い方の知恵の輪を弄っていたら突然外れてしまった。やはり元に戻す方法がわからない。だいぶ奇妙な構造をしているので復元には時間が掛かりそうである。自分が知恵の輪を元の状態に戻すよりも、パーツの一部を紛失してしまう方が先かもしれない。

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