日記:贈るのが苦手

誰かにプレゼントをするのが苦手だ。何を贈ればいいのかわからない。


友人の誕生日があったと仮定する。しかし何を贈ればいいのだろう。身につけるものや普段使うものは、相手の趣味があるだろうし贈りづらい。かといってあまりに使用用途のないものを贈られても持て余してしまうだろう。そう考えていくと、何を贈れば良いのか分からなくなる。結局、食べてしまえば形の残らない菓子折りなどを持っていく。

形あるプレゼントを用意したにも関わらず、直前になって渡す決意が揺らいでしまって、結局自分で使ってしまうこともある(割と何度も)。気にし過ぎと言えばそうなのだけれど、とにかく相手に気を使わせてしまうのが嫌で、もっと言えば相手に引かれてしまうのが嫌で、どうにも二の足を踏んでしまう。


誰かからプレゼントを貰ったときのことを思い出してみる。正直に白状すれば、これはあまり使わないかなと思うものを貰ったこともある。だが、それを贈られたという事実が嬉しくて、使わないプレゼントのことを思い返すたびに嬉しくなる。プレゼントとは、モノを贈るにあらず。心を贈るのである。

しかしそれは、自分が相手のことを好意的に捉えているという前提があってこそである。好ましいと思っている相手だからこそ、貰うものがなんであれ嬉しい。

それを、自分がプレゼントを贈る相手にも当然あてはまるであろうと思うのは思い上がりである。何を、自分が相手に好いてもらえていると勘違いしているのか。そんなわけないだろう。そんな風に頭の中で鳴り響く声がある。

だからやはり、自分は贈り物ができない。


別に贈り物というのは、少なくとも自分の人生においてはそこまで頻繁に発生するものではない。友人の誕生日に贈り物をするということもない。精々、家族の誕生日と母の日・父の日に頭を悩ませるくらいなのだが、しかし厄介なのは、これらは毎年来るという点である。毎年、同じように心が苦しくなる。そしてプレゼントをしたりしなかったりする。

カーネーションを贈る?しかし花なんて飾ったり水を取り替えたりするのも面倒ではないだろうか。それは自分が花を飾ることがないからだろうか。いやしかし、花は枯れてしまう。それを見るのは悲しいことではないだろうか。ではお菓子は?しかし健康に気を使っているところがあり、食べ物を贈るということは無理にそれを食べなくてはならないという義務感を生じさせ、それが負担となりはしまいか。本を贈るのはどうだろう。いやいや、自分も買ったまま読んでいない本がたくさんあるように、読書というのはエネルギーが必要な行為である。その行為を相手に強いるのか?もし読まなかったとしても、「プレゼントしてもらったのに読めていない」という罪悪感を抱かせてしまうのでは?

そういうことを考えて、母の日・父の日や家族の誕生日は過ごしている。深く考えるのはやめにしてプレゼントをするときもあれば、結局答えが出ずに何も贈らないこともある。そして、もし母の日に何も贈らなければ父の日も同様にしなくてはバランスが取れない。そうやって一つの選択が他方にも影響してくるので、ひとたび贈らない選択を取ってしまうとプレゼント不在の日が続いてしまう。それも心苦しい。


きっとこれは呪いのようなものだ。「プレゼントを贈らなければならない」「贈るのならば良いものを贈らなければならない」「相手の負担になってはならない」……というような数々の義務感に囚われている。そんなもの、本当はどこにあるわけでもないのだ。贈り物というのは一つの手段でしかなくて、大切なのは、大切な相手を大切に思う日というものがあり、それを自分も大切に思っていますよと表明することだ。誰かの特別を、自分も特別だと思っていると伝えることで、相手の孤独を解くための行為だ。しかしまあ、それを他の手段で表すということも難しいように思われて(自分はそれを上手く言葉などで伝えられる気がしない)、結局のところ最も形式的で手っ取り早いのもプレゼントだったりする。

いつしか、ちゃんとした贈り物をしなくてはならないときが来るかもしれなくて、そのときのためにも贈る練習をしなければならないとは思う。しかし呪いを解くためにどうすればいいのか全くもってわからない。誰か助けてくれ。

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