日記:明日へと向き直るための儀式

よいニュース……

こういうニュースを集めたアカウント、眺めていると心が少し弛緩して、そこにゆとりのようなものが生じる。それで決定的な何かが救われるわけではないのだけれど、張りつめた精神をほぐして前へと向き直るための準備をさせてくれる気がする。癒しは人生に必要。

それにしてもこの日記は2の羅列の話を引っ張り過ぎですね……(3日連続)


今日は祝日だったのでいつもよりも遅く目を覚まし、先日増設した本棚に棚を追加できる余地があったのでそれを取り付ける作業をしていた。増えた棚に本を並べたが、調子に乗って段ボールに仕舞ってあった本も取り出してきたらあっという間に埋め尽くされてしまった。無限に入る本棚が欲しい。

しかし並べてある本は積んだまま未読のものも多く、シリーズの作品は途中の巻が抜けているのものもたくさんあったりして、あまり人に見せられたものではないなと感じた。本棚を見せたとして、「この作品読んでるんだね」と言われても、「いや、それは読みたいと思って買ったんだけどまだ読めてないんだ」と答えるしかない本が3、4割の確率で存在している。そんな本棚を見たところでその人は何を思えばいいのだろう。読んだ作品が人を形作るのだとしたら、それを判断する情報としては私の本棚は些か心許ない。「こういう本を読みたがっているやつなんだな」ということならわかるかもしれない。

とりあえず、僕の『めだかボックス』の12巻がどこにあるか知りませんか?


知人と人生(言葉が大きい)の話をした。人生の話ができる相手とそうでない相手がいて、両者は別にどちらが深い信頼関係にあるとかそういうわけではない。よく会う仲のいい相手だが人生の話はしないということもあるし、昔はそういう話をしなかったが最近になってよく話題に上るようになったということもある。さらにいえば、人生を抽象的なものとして語る場合と自分たちの現実に地続きな問題として語る場合もあり、一口に「人生」といってもその捉え方はそれぞれなのだということを感じる。人には人の人生がある。

どの場合でも、答えらしい答えが出ることはない。結局は曖昧でよくわからない、普通のことを言っているだけなのではないかという結論にあまり納得しないまま辿り着いて、そこで議論をあきらめるのが常である。それはそうだろう、人生における解答が示されたという例を私は寡聞にして知らないのだが、しかしそれは数多の識者が歴史の中で議論を重ねたにも関わらず導出されていないであろうことを示しているのであって、それを深夜の雑談で明らかにしようという試みそのものが無謀と呼んでしかるべきなのだ。だがそれが無意味であるとも思わない。

これもやはり、明日へと向き直るための儀式のようなものなのだと思う。複雑な現実に打ちのめされそうになったら、少し落ち着いて現在位置を確認し、次の一歩のことに想いを馳せる。そうしてある種の麻酔を自らにかけることで、きっと明日を生きていけるようになる。そのための行為は別になんだっていい。癒されるニュースを見ることでも、人生について話すことでも、それ以外にも自分の好きなことに打ち込んだり、あるいは何もせずゆっくりと過ごしたり、そういうことを繰り返して、人は未来へと進んでいくのだと思う。

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