日記:常識が怖い

昨夜はオンラインで通話しながら麻雀をしていた。といっても、麻雀が主目的というわけでもなくて(真面目に麻雀をやっている人には申し訳ないのだけれど)、「最近どうなん?」みたいなことを滔々と話していくことが楽しくてやっているという節がある。

ここ数年はあまりなくなったが、「飲みにいこうぜ」というのもそういう意味だったりする。別にアルコールを摂取したいというのが一義的にあるわけではなく、ただ話をしたいから他人を飲みに誘うのである(あまり誘いをかける側ではないのだけれど、少なくとも自分の場合は)。しかし、ただ会話をするというだけではあまりに手持ち無沙汰だし、「話がしたいのですけれど」と切り出すことはなんとなく相手を身構えさせてしまう。だから、わざと別の誘いを切り出すことで、その本懐を果たそうとするのだと思う。そうすると、もともとの欲求であった「話がしたい」という欲求が、もののついでのように遂行されていて、それがなんだか不思議だなという気もする。


他者との関わりの中で目的を果たそうとするためには、そういう迂遠な道を行かねばならぬときがある。自分は、人と接するのが得意ではないので(人と話すのは好きだが、そこに至る過程を構築するのがあまりにも苦手)、目的に対して別の手順を踏まなければならないというのは時折煩わしく感じられる。この世界には誰もが知っている正解の道筋のようなものがあって、それはあまりにも膾炙しているからわざわざ口にしないだけで、普段は覆い隠されている。それを自分だけが知らないという感覚にさせられてしまう。別の言い方をすれば、この世界には常識というものがあり、それを遵守する能力が自分にはないような気がしてしまう。いざ課題に直面してはじめて、「それって常識じゃない?」と周囲から突きつけられ、自らの無知を恥じいる。そんなことが何度もあった。

すべてにおいて普通の人などいないように、あらゆる常識を備えている人もまた存在しない。常識やマナー、ルールといったものは、それ自体が先にあるわけではなく、人と人との関わりの中で、帰納的に形成されていくものであって、表面的な言葉のみに正しさがあるわけではない。だから常識的であるということは、そこに走る文脈を理解し、その場における正解を導き出すことができるということなのだが、その判断には経験や知識が要求される。あらゆる経験や知識を持つこともまたできないのだから、およそ常に常識的であり続けるということも不可能に近い。

どんな人であれ常識に欠く部分は存在するものだ。ただ、それにも露見しやすい部分とそうでない部分があり、例えば適用する機会の多い挨拶や電話応対のような場面では、ある程度の法則のようなものを身につけておいて損はない。でもそれは、「非常識だ」と糾弾されることのないようにするための、自分を守る1つの手段であって、誰かがそれを知らないからといって即ち罪であるということにはならない。無知であることが罪なのではないからだ。ルールは遵守すべきだが、そのルールは前もって明確に伝えられなければならない。そうでなければフェアでない。

ああそうか、自分が常識のようなものに感じる忌避感の正体は、それがアンフェアに感じられるからということなのかもしれない。暗黙の了解が自分の預かり知らぬところで共有され、ふと境界をはみ出した瞬間にそれ見たことかと裁定を下される。常識のようなものが明文化された規則ではなく、営みの中で徐々に形作られていくものである以上、それがあらかじめ知らされるということの困難さはわかっているつもりだが、しかしそういった性質を持つルールである以上、イエローカードは許容されるべきだと思う。そうでなければ、いつ薮から飛び出してくるかもしれぬ蛇に怯えながら道を歩いていくことになる。自分にとっては、世界がそういう恐ろしさを当たり前のように備えて回っているものとして感じられる。

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