日記:季節は変わり、僕は変わらない
電車に乗っている時間は、スマホを開いて動画を見たり本を読んだりしてしまうけれど、ふと目線を上げてみると同じようにそれぞれの世界に集中している人が車両にたくさんいて、それがなんだか面白く感じられる。同じ時間の同じ場所に居合わせながら、別にそれらが交わることはないことを思うと、世界は自分とは無関係の場所で動いているのだなと思う。きっとそれぞれの人生があって、それらを乗せて電車は走る。だからなんだと言われれば、それ以上うまく説明はできないのだけれど。
卒業式に向かうと思しき姿の人を少しずつ見かけるようになり、もうそんな季節になったんだと思う。時間は同じ速度で過ぎていて、自分の意識とは無関係に次の季節は訪れるから、いつも何かをやり残した気がしている自分はいつも「もう次の季節が来てしまったのだな」と感じる。春は出会いと別れの季節。すべてを暴力的に押し流す時の流れに対して、筋違いの恨みつらみを抱いたことがないかと言えば嘘になる。何も変わらないでほしい。ずっといまの安寧に身を浸していたい。私から幸福を奪わないでほしい。そうやって、失うものばかり数えている。
社会人になってからは、春のもたらす変化はいくらか少なくなったけれど、それでも世界が変わる季節であることは違いない。むしろ、世界の変わりように対して、自身の周辺がほとんど同じように時が流れていくことに焦燥を覚える。私もその変化に追随しなければならないのだろうか。1年前の同じ季節の自分を思い返して、そのあまりの変わらなさに怖くなってしまう。
世界は絶えず移り変わっていて、だから自分も変わらずにはいられない。周りが変わるのに自分だけが変わらないのなら、それはただ取り残されていくということで、その孤独に耐えられるだけの精神を持ち合わせてはいない。だから変わっていかなければならないし、きっとそれが自然であるのだと思う。
しかし変化とは今までにない領域への挑戦であって、それは必ずしも成功するとは限らない。何が起こるかわからないのが人生だし、変わることが自分にとって良い方向に転がるのかそうでないのかもまた、起きてみるまでは不明のままだ。そして自分は、わからないことが怖い。それならば、現状維持を選択することによる安寧を選択してしまう。それがいつしか抜け出せない穴の底へと沈んでいく行為だとわかっていても、踏み出すことの恐怖に抗うことはできない。だからずっとそのままでいる。
それでもやはり、変わらなければならないときは来るのだと思う。穏やかな時間の流れに甘んじていられるのは単なる幸運で、いつの間にか取り返しのつかない事態が進行しているように思われる。その恐怖に抗うためには、やはり変化というリスクを冒していかなければならない。より大きな陥穽を回避するために。
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