日記:具体と抽象、現実と理想

気がつけば毎日、抽象的なことばかり書いている。日記とはそれぞれの具体的な生活に根差した描写を綴るものではなかったか。それをしないのは特に変わり映えのしない毎日を送っているからだけれど、しかし同じような街並みでも優れた視点を持つ者からしてみれば如何様にも新鮮な切り口の発見をすることができる。特筆すべきイベントが少ないことを、変わらない環境のせいにしてもはじまらないし、生来の資質や培ってきた実力が無いのならむしろ日常に変化を起こすように努力すれば良いだけの話で、だからこれは単なる怠惰の結果ということになる。

具体的なことを書かないのは、それをすると何も無い自分が暴かれてしまいそうで怖いからというのもある。だからいつも抽象的な話をしてお茶を濁している。現実のことは何も語らないのに、ただ美しい理想だけを並べていれば、少しはそれらしいことを書けているような気がするのかもしれない。でもそれは張子の虎だ。実践の伴わない適当に並べたてただけの理論が空虚に響くのと同じように、空っぽな人間がどれだけもっともらしいことを書いたところで、それはただの綺麗事でしかない。そこにあるべき具体的な根拠を欠いているからだ。

日々の具体的な生活は、言葉で語るよりもずっと泥臭くつまらない。それでいてつらくしんどい。99%の地道な積み重ねの上に、1%の可視化された結果がついてくれば良いほうだ。生きることとはそういう砂金を浚うようなものだ。

言葉による抽象化は、そういった言葉にならない個別具体的な事象を往々にして覆い隠す。だから、たとえ聞こえの良い話でも、その裏にあるのは想像よりもずっと灰色で地味な積み重ねかもしれない。そのことに配慮せず、ただ上辺だけを取り繕った言葉にどれほどの力があるだろうか。綺麗事を書いているうちは、自分が立派な人間にでもなったかのように錯覚するかもしれない。でも振り返ってみるとそれはただ想像と妄想で適当なことを並べ立てているだけだ。それは自分が一番よくわかる。

抽象的な思考を正しく取り扱う人に憧れる。きっとそういう話の組み立て方が好きなのだと思う。でもそれを真似るのなら、具体的な実践に裏打ちされたものでなくては無意味で説得力を持たない。逆に現実を乗り越えた上で語られる理想には一定の力強さがあるだろう。だからどれだけ地味でつらいものだとしても、個別具体的な現実を生きていくしかない。そうすることでしか、抽象的で普遍的な理想論に軸を通すことはできないのだと思う。そういう抽象的で空虚な話。

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