日記:傍観者

知人と『ルックバック』の話をしていたらあっという間に時間が過ぎていた。今日はTwitterを見ていたらずっとこの作品の感想が流れてきていて、その奔流に軽く眩暈がしそうになっていた。影響の大きさをなんとなく感じる。

導入の巧みさ、緊張と緩和のバランス、同じ構図を繰り返すことによる意味の持たせ方、思ってもみない方向へと展開させていく裏切り方、タイトルの意味。ひたすらに凄まじかった。

自分はそうではなかったのだけれど、観測範囲で反応を見ていると、作品の凄まじさに打ちのめされたような感想を言っている人が多くて、その人たちはみなクリエイターの方々であった。恐らく、自分には見えないものが見えているのだろうと思った。

それは、作品の完成度に対して「こんなすごいものを作られてしまったら、自分は何も書けない」というような一種の諦観なのだろうか。自分にはわからなかった。そのことが少し苦しい。「お前には何かを作ることができない」と突きつけられたみたいで。

自分が感じたのは希望のようなものだった。人がなぜ前を向くのか。喪失を経たとしても、机に向かうのはなぜか。そのことを、希望と共に語っているように思えた。

この作品を読んでいると、どうしても一つの過去が頭を過る。それは自分が抱えていい罪悪感ではないように思えて、そのことにまた罪悪感を覚えた。自分は何もせず黙っているだけの傍観者だ。何かに悲しみを覚える権利も、怒りで立ち上がる資格も、自分は持ち合わせていないように思えた。

だから感想を言葉にするのも躊躇われた。でもそれも逃げているだけのような気がした。自分が受け取った希望は確かにそこにあるもので、それはきっと嘘ではない。

どうしても意味を見出してしまう。きっと意味はあるのだと思う。それは覚悟をもって込められた意味だ。それを真正面から受け止めることはできない。自分はクリエイターでも何でもない、ただの傍観者だと、そう思うからだ。

そんな傍観者にも人生がある。生きていく以上、喪失を経験する。喪失を経て、自分が前に進む理由はなんなのか。この作品は、そのことを希望と共に描いているのだと受け止めた。傍観者の自分には、そう思えた。それだけ。解釈に正解があるとしたら、この答えはきっと間違っているだろう。作品を受け止めるだけの資格が自分にはないから。

意味はある。それが自分には見えないだけで。それが自分には語れないだけで。


ネガティブな感じになってしまったけれど、本当に面白い作品でした。いろいろと考えてしまうのも、作品のパワーが極めて高いからこそだと思う。多くを言葉に乗せず、絵の移り変わりで表現を完結させてしまう技巧の凝らし方に、やはり圧倒されてしまう。

読み切りとしては長い作品なのに、意味を咀嚼する引っ掛かりもなく、するりと情景が入ってくる。さながら映画のように。ぺらぺらと捲ってしまうページの裏に、自分が及びもつかないほどの技術がちりばめられているのだと思うと、やはり圧倒されるほかない。



というか今日めっちゃ暑かったな……。冷房が無かったら死んでいる……。

自分の家の冷房は、リモコンの画面が壊れていて温度表示が読み取れない。そのため、今が何度に設定されているのか簡単にはわからず、自分の肌感覚で温度を上げ下げしている。

今日はただただ暑かったので、設定温度は下がるばかりであった。なかなか外に出ないと忘れてしまいそうになるが、いつの間にか夏が到来している。季節は自分なんかを待ってはくれない。ただ繰り返していく。

今年も夏が来る。暴力的な熱を伴って。

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