日記:パンを与える人

メルカリで使わないものを出品した。メルカリで出品するのは初めてだ。

買い手としては一度だけ利用したことがある。去年、PS Vitaのメモリーカードが必要になったのだけれど、どこを探してもなく、最終的にメルカリで出品されていたのを見つけてありがたく購入させてもらった。


他の出品を参考に、何枚か写真を撮り、最低限の説明を添えて出品する。値段の設定は、サジェストされた範囲の上限を設定してみた。そうすると間も無く、「いいね!」がついたとの通知が届く。

メルカリの「いいね!」って何?「いい出品ですね」とかそういうことか?写真の撮り方が上手いですねとか、キャプションの付け方が上手いですねとかそういうことなのだろうか?

どうやら、「いいね!」をした商品は値下げなどの情報が確認できるようになるらしい。ともあれ、SNS的な作法がこんなところにも持ち込まれていることに少し驚く。人と人とが交わればそこはソーシャルネットワークである。メルカリ上で多くの「いいね!」を獲得するために、メルカリ映えする出品の仕方が日々磨かれたりしているのだろうか。きっとそこには一定の文法が存在するのだろうけれど、門外漢である自分にとってそれはまだ見えてこない。


また少しして、コメントがついたとの通知が。それに応答していると、コメントをつけた方とはまた別の方が購入しましたとの通知が届く。なんというスピード感か。せっかくコメントして確認してくれたのに申し訳ないという気持ちが募る。でも売れてしまったものは仕方ない。この辺り、設定で変えられたりするのだろうか。

出品はコンビニでできるらしい。梱包をすませて最寄りのコンビニへ。端末を操作して受付表のようなものをプリントアウトしてレジに持っていく。するとビニールの袋とレシートを「どうぞ」と渡される。なんだこれは。どうすればよいのだ。

恐る恐る店員さんに尋ねると優しく教えてくれた。そういえば以前もコンビニで荷物を発送しようとしたとき、同じように店員さんに尋ねたことを思い出した。なにも成長していない。しかし、ビニールの袋に配送情報となるレシートを入れて、それを荷物に貼り付けるというくらいならやってもらってしまってもいいのではないかとも思った。その方が、自分のような人間が辿々しく作業する時間を効率的に処理できたりするのではないかと。でもきっとそれができない理由があるのだろうなとも思った。そもそも多くの人は伝票を貼り付ける操作に慣れ親しんでいるのだろうか。そうすると単に自分の熟練度が足りないというだけのことになる。「コンビニで荷物を発送するスキル」にスキルポイントを振ってこなかった人生だった。

そんなことを考えていたらあっという間に手続きが終わった。出品してから殆ど1時間くらいの話だ。文明だな〜〜。


なんというか、かなり傲慢であることは自覚しているのだけれど、自分が何かを送る側になるというのは、与える立場になった心持ちがして少し嬉しくなる。相手の求めているものを差し出すことができているというか、そういう贈与的な快感を疑似的に味わったような気がした。いや、これから商品が受領された後にめちゃめちゃ低評価のようなものをつけられる可能性だってあるけれど、少なくとも今のところは、「いいことをしたな」というよくわからない錯覚が心を暖めていた。自分の使っていなかったものが誰かの役に立てているような気がして。実際はモノに向けられている承認を無理やり自分に向けて喜んでいる。

自分が「与える」側であるという意識は人の心を健康にするかもしれない。逆に、「与えられている」という感覚が拭えない場合、それは罪悪感や自責の念に接続しかねない。社会の中で「与える」という役割を果たすことによって存在することの承認を得る。「与えられている」だけではそれが果たせない、と思ってしまうことはかなり息苦しい。だから人はなにか役割を果たしたいと思う。

でも、「与える」だけの人もいないし、「与えられる」だけの人もいない。社会とは様々な形で授受が入り組み合い、相互に結びついてその形を成している。「与えられる」ということは、その需要をもって「与える」側の供給を満たし、そこに資本の流れが生まれる。「与えられる」ことで満たしているものがある……と思う。そうやって「与えられた」人が、今度はそれを「与える」側になったりもする。人は知らず知らずのうちに連鎖していく。


そういうことがシャニマスの幽谷霧子さんG.R.A.D.編シナリオで描かれていたりするのだけれど、うまく説明できないですね……。パンを与える人はすごいけど、でもパンをもらってはいけない人はいないのだ。社会の役割とかそういうことではない、存在そのものを祝福するような優しい息遣いを感じるシナリオで、とても大好きです。

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