日記:やりたいことなんてわからない
髪を切った。
髪を「切った」という表現にはずっと抵抗を感じている。切断という動作の主体を表すのは自分ではなくて髪を切る理容師や美容師の側である。自分の選択の結果理容室や美容室に行くということを指して主体を自分に置くというのならそれもそうなのだが、しかし自分が髪を短くするのは「髪が伸びてしまうから仕方なく」「ずっと伸ばしっぱなしにしていると他人からの印象が良くないから仕方なく」という外部の要請に従う受動的な行動であるということが多い。そこに自分の意思は介在しないように思える。注文も「ある程度短くしてください」といった内容のことを伝えるだけで、自分がどうしたいというような要望がない。というか、要望を考えるだけの知識がない。それを考えるのが面倒だからずっとそのままにしている。
でもまあ、知らないままでいるのも気分が悪いので、そのあたり踏み込んでみてもいいのかもしれない。自分の容姿を整えることに努力を割くことについて幾許かの気恥ずかしさが存在するのだけれど、しかしそういう努力をみんなやっている。みんなやっているからやる、という訳ではないのだけれど、それでも何も知らないままでいるよりは知ってからそれを選ばないという道を進んでも良いのかなとも思ったりする。追求しようと思えばいくらでも追及できてしまうので、自分の持てる労力と勘案して取捨選択はどうしても必要になってくるのだけれど。
そう、取捨選択。可処分時間の割り振りをどのように行うかというのは現代人にとって大切な命題である。「まず何があるのかを知ってみよう。その中からどれを選ぶのかは、知ってからでも遅くはない」というスタンスは、一見正しいように映る。しかしただ「知る」というだけでも、続けようと思えばいくらでも続けられてしまう。この世のすべてを知ることなんて到底できなくて、ひとつ新しいことを知ったと思えばその倍の未知が増えるなんてことが当たり前である。未知の荒野は無限に広がっていて、その先を見てから考えようという姿勢ではいつまで経ってもひとつの道を定めることなんてできない。「やりたいことを探すために大学に進学する」と言っておいて、結局やりたいことなんてわからないまま今に至る自分のように、決断をただ先送りするだけの「無知のポーズ」を構える。自分はまだ何も知らない、そう言い続けて気付けば余りにも多くの時間を食いつぶしている。選択をすることで可能性をひとつに狭めてしまうことを恐れて、いつまで経っても何も選べないだけの存在になり果てている。
もっと自分の声を聞くべきだったのかなと思う。今からでは遅すぎるけれど、しかし遅くても動き出さなければ始まらない。別にこれはどちらが良いという話ではない。選択と行動をした結果、より悪い方向に転ぶ方だってある。だからこれは「何もしない方が良かった」と「何かをすれば良かった」という、どちらの後悔を選ぶのかという話である。選択の結果としての「何もしない」なら良いのだが、ただ惰性に甘んじるだけの安寧は、選択の権を放棄しているだけで、それはなんだか良くないことのように感じられる。何をするにしても、何をしないにしても、どちらにしても「自分がそうしたいと思っているからそうする」のでなければならないと思う。選ばなければ、後悔すら残らない。
そんなことを考えながらも日々惰性で時は過ぎていくし、髪は伸びる。その自然現象に従って、自分は髪を「切られている」。髪を切らなければならない。
昨日の日記で「他者とは」みたいなことを書いていたら、他者に関する記述が目に入るようになって面白かった。こういうのはカクテルパーティ効果でいいんだろうか?要するに、自分の中の曖昧な感情的に日記を記すことである程度言語化し名前を与えることで、同じく言語を用いて何かを表そうとする人が同様の言葉を使ったときに意識できるようになったの気がする。
たぶん自分の文脈とは違うものを指しているのだろうけれど、誰かが「他者」という単語を使ってどんなことを言おうとしているのかがわかるので、そこに自分との差や共通部分を比べることができる。
言葉にするのは大切だと思う。結局のところ、人は言葉を通してつながっている。言葉にすることでしか理解し合うことができない。……いや、これは嘘だ。言葉にならない超越的なところで相手とつながるということもある。でもインターネットというフィルタを通して相手のことを知るには、やはり言葉というツールに頼るしかない。それがどんなに誤解を生じさせる可能性を内包していようと。
AmongUsをやっていた。以前も書いたのだけれど、自分はこのゲームが苦手である。今日もImposterを2回ほど引いたのだが、そのどちらも最初のkillで怪しさを指摘され敗北している。罪の発覚を恐れながら行動するということは自分の心に大きな重圧を生じさせており、そうして鈍った判断から綻びを見出される。ずっと自信がないまま動いている。
これはもうそういうものとして受け入れてもいいかなとは思っている。上手く自分への疑いを躱して振舞うスキルは、人狼系ゲーム以外にあまり活かす場面が思いつかない。仕事だったりでそういう振る舞いが要求される場合、それは環境の方がおかしいということになると思う。偽ることが有効な場面もあるにはあるが、どちらかと言えば少数である気がする。だから、自分は人狼系ゲームは苦手なままでいいかなと思う。
AmongUsは楽しかった!自分はうまく立ち回れなかったが、動きの上手な人がゲームをかき回していくのは見ていてとても心地よい。議論の誘導が鮮やかに決まっているのを見ると、負けてしまっても爽快感が残る。嘘は楽しい。そこには人の意思が込められている。ただそこにあるだけで何の意思もない真実よりも、ときに嘘は美しい。『偽物語(下)』でそんな話があったけれど、偽ることはどうしても人間的で、そこには願いが込められている。やりたいことがあるからこそ嘘をつく。その意思は本物である。
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