日記:怠惰は努力を神格化する

自分は結構怠惰な人間だ。1日中寝ていられるのならそうしたいし、取り掛かった作業は集中が続かないし、目的と意志を持って打ち込むということができないし、やらなければいけないからと自らを奮い立たせることもできない。夏休みの宿題はいつまでも最後になってなんとか片付けてきたものだから、そうした性向が身体に染み付いてしまったのかもしれない。とりあえずはそれで形だけでも繕うことができたから、そうやっていつも誤魔化しながら生きてきた。

そういう人間であるからこそ、努力というものを素晴らしいものだと思う。それは自分のような怠惰な人間には決して手の届かないもので、万雷の賞賛をもって迎えられるべきもので、きっとそれこそが正しい道なのだと思う。自分は間違っている人間だからこそ、陽の当たる場所を正しく歩んでいる人こそが報われて然るべきだと感じるし、できることなら自分も努力できる正しい人間になりたいと夢想する。

さて、そうやって努力を自らとは縁遠いものとして捉えたとき、その価値は際限なく肥大していく。その価値を測る物差しが自分には存在しないからだ。だからこそ、努力というものを万難を解決する銀の弾丸だと思い込んでしまう。端的にいえば、「頑張ればなんとかなる」という根性論を心のどこかで信じてしまっているのだ。

しかし努力とは、手放しで信奉するものではないし、侵すべからざる神秘でもない。世界で活躍するアスリートは、きっと闇雲に鍛錬を重ねるのではなく、科学的知見と自らの感覚を調整して日々その方向性を確かめているのだろうし、事業で大きな成功を挙げる人は、綿密な情報収集と分析を重ねて選択と集中を決断しているのだろう。そこには1つ1つ細分化されたステップがあり、それらを明確な目的を軸に実行することができる人が、より高みへと昇っていくのだ。その細部が見えない自分にとっては、それが「頑張る」と一括りにすることしかできないのだが、努力とは恐らくそうした現実の積み重ねでしかない。ただ自分には実践できないだけで。

「頑張ればなんとかなる」というのは、目的の達成に至るまでの道筋が見えていないだけだ。実際には細かな実践の積み重ねだけが自らをゴールへと導くのであり、それをまとめて努力と呼んでしまうのは些か乱暴といえる。怠惰ゆえに努力の正体を見誤ってしまう。自分だって努力を重ねることができればなんとかなると思ってしまう。でもそれはなんてことはない、何もわかっていない人間の妄言でしかないのだ。努力という何かがあるのではなくて、目的のための実践の集積を、後から努力と呼んでいるにすぎない。

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