日記:社会における役割

人は社会の関わりの中で生きているのであって、だから社会の中でどのような役割を果たすことができるのかについて時折考える。そこで発揮される自らの役割こそが、すなわち社会における存在意義となりうるからだ。

そしてそれを考えるとき、別に自分はいなくてもいいなと思う。

自分ができることは他の誰かがもっとうまくできるし、自分にできないことをやってのける人はこの世にたくさんいる。もちろん、何もできないからといって生きていてはならないわけではないのだけれど、それでも「ここにいてもいい理由」を求めてしまう。存在に理由は必要ない。ただそこにあるだけの事象。それでも何かに許しを求める。

まず、自分に何ができるかを考えてみる。仕事はその最たるものだ。資本主義経済(単に「金銭を媒介にして流動していく社会」というような意味)においては、労働力の提供と引き換えに対価を得ているわけで、それが価値を生まなければその関係性は成立していないわけだから、それは社会から必要されている行為となる。それを果たし続ける限り、とりあえずは何かを為しているという気になる。

しかし、会社という組織に所属している限り、自らの価値が厳密に問われ続けるということはあまりない。事業を継続する上では、従業員は交換可能な存在でなければならない(属人性の排除)わけで、そういう意味で会社とは個人の存在が抽象化されたレイヤーとなる。別に、同じようなスキルセットがあるならば、そこにいるのは自分でなくてもよいわけだ。そのスキルが単に資格や経歴のみを指すのではなく、対人性の巧拙やモチベーションの高低といった数値化しづらい曖昧なパラメータにも左右される部分があって、それが個人の非匿名性を担保している。数値に還元されえないスキルをもってしてはじめて、そこにいる理由が発生する。

もう1つ、仕事をする上で「自分でなくてはならない」理由があるとしたら、会社などの限られた領域において同じ役割を果たせる人間が自分しかいない場合、それは必要とされる理由になる。例えば会社には経理の取りまとめをする人が必要になる。それぞれの会社において必要になってくるわけだから、会社の中でそれを果たしている限り、唯一無二の存在になるわけだ。

つまり「鶏口牛後」である。自分より優れている人間などいくらでもいる。でもそれが限られた範囲において自分にしか果たせない役割なのだとしたら、それは自分がそこにいる理由になる。環境にもよるけれど、人はそう簡単に流動しないので(コストがかかるため)、個人に紐づく価値が生まれることになる。この性質は大きな組織ほど逆進性が働く(それだけ比較対象が増えてしまう&部門間の異動であればそれなりに発生しうる)が、それでも普段の業務における観測範囲は限られているので、その領域で自分の存在が唯一であればよい。


ただ、これは「自分ができることを他の誰かがもっとうまくやれるのならそこにいる理由がない」という極端な考えに則った場合の1つの解であって、現実にはタスクの量から人手が必要な場合がほとんどだし、ただそこにいて働いているだけで価値を生むことになる。だから、あまり深く考えすぎなくてもよいという気もする。

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