日記:過去は消えゆくものだとしたら
今日見て笑ってしまったものを貼っておこう……
このナベアツさんは6月18日に40000を数えるまでアホであり続けるらしい。
過去をそのままに留めておくことはできない。こうして日記として綴ることでは拾い切れない断片がたくさんある。たとえば、起きている間ずっと自分の見ている方向にカメラを回していたとしても、それは単に動画としての記録であって、匂いや感触までを再現することはできない。人間の五感を全て記録しておくことは今のところ難しそうだ。
その記録だっていつ消えてしまうかわからない。ハードディスクのような外部記録媒体にしたって物理的に破壊されてしまえばそれまでだし、クラウドストレージ上に保存していたとしても人為的ミスによって削除してしまう可能性はゼロにはならないし、そもそも一定量を超えた保存には課金も嵩む。コストと天秤にかけ、適切な保存方法を選択する。それは時にリスクも許容するということだ。インターネットに飛び出した情報は消えづらいように思えるけれど、それもきっと永遠ではない。
過去が存在したという記録はいつか消え去っていく。そうして思い出の中だけの幻影となり、その記憶も次第に薄らいでいく。そのとき、過去は無かったことになってしまうのだろうか。
「人はいつ死ぬと思う?」「人に忘れられた時さ」
忘れてしまった過去は、いつか消えゆくものなのだろうか。
「花束みたいな恋をした」という映画を春先に見た。心をぐさりぐさりと刺してくるような映画で、とても面白かった。しばらくこの映画のことが頭から離れなかった。
作品の中で、Google Mapのストリートビューに自分の姿が写っていることを発見して喜ぶというシーンがあった。
Google Mapの画像は一定のスパンで更新されてしまう。そこに写った自分もいつか消えてしまう。そのとき、自分がそこにいたという過去は消えてしまうのだろうか。(追記:ストリートビューは過去の写真も見ることができたりするらしい。よかった〜〜)
消えるわけではないと思いつつも、そこに喪失を覚えてしまうだろうと恐れを抱く自分がいる。自分がいたはずの風景が、そうでないものに上書きされてしまうのを見るのは怖い。例えば、昔暮らした街が、大人になって訪れたときにすっかり変わってしまったのを目にしてしまうと、自分が楽しく駆け回っていたあの時の空気が失われてしまったのではないかと思うような。過去はいつ、自分の手をすり抜けてしまうのだろうか。
そんなことを考えながら、「大豆田とわ子と三人の元夫」の7話を見ていたら、時間についての話が登場した。
少し自分の中で噛み砕くのが難しかった。人間の認識において時間は連なっているわけではなく、過去は現在の前にあるのではなくて独立して存在するもので、だから過去にちゃんと手を伸ばして触れることができる。そういうことを言っていた。
なんかここだけ抜き出すとすごい哲学的な話に見えるけれど、でもそうではなくて、人間が生きていく上で時間という存在をどう受容していけば良いのかという肌感覚についての言葉が投げかけられていると感じた。そういったものの総体を指して哲学と呼ぶのかもしれないけれど。生活の裏面に貼り付いているはずの無意識を言葉にして取り出そうとする語り口に、改めて感嘆してしまう(坂元裕二さん脚本の作品は「花束みたいな恋をした」と「カルテット」を見たのだけれど、どちらも着目する部分が細かくて、それでいて共感を強く引き出される言葉が多かった。「細かすぎて伝わらないモノマネ」みたいなことをあらゆるところに挟まれるような心地よさがある)。
要するに、過去が消えてしまうということはないのだと思う。どちらかというと劣化してしまうのはそれを思い出す機能の方で、それをどうにかして補う必要がある。例えばそれは、かつての友人でたまに集まって昔話に花を咲かせたりとか。昔はこんなことがあったんだよと若い世代に言って聞かせたりとか。
……こうして過去を思い出すための具体的な例を挙げてみると、なんとも歳をとった人間がとりがちな煙たがられる行動そのものだ。でも、そういうことでもやっていかないと、そのうち過去を手繰り寄せることができなくなってしまいそうで怖いのだ。だから、居酒屋で酔いも回ってくるとそういう話をしてしまうのだと思う。
……それはそれとして、先達の昔語りはあまり好ましいものであることが多い。いや、長い話を何度も繰り返されなければ良いんですよ。昔の話を聞くのって結構楽しいし。問題は語り方にあって、それを多くの場合間違えてしまうからなかなか難しいことになってしまうだけだと思うんですよね。鍛えるべきは、過去を心地よく聞かせるためのエピソードトーク力なのかもしれない。
過去を思い出すために記録は大いに役立つ。ただ、記録は手段であって、目的になってはならない。記録そのものに過去を保存しようとしてしまうと、それが喪われたときにその想い出まで消えてしまったかのように感じてしまう。でもその時間はただそういう過去として存在していて、その煌めきは変わることがない。過去の記憶は人の無意識の中に眠っていて、ふとした拍子に驚くほど鮮明に蘇ってくるものなのだと思う。記録も記憶もなくなってしまっても、過去が喪われてしまうことはきっとない。ずっとそういうものとしてあり続ける。
僕は「世界のナベアツ」を最初に見たときの衝撃と感動をちゃんと覚えていた。覚えていたよ。
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