日記:無償の愛ってなんだ

声優の芝崎典子さんによる不死身の犬との日常を綴った漫画「のりこいぬ」が素晴らしいことは周知の事実だと思いますが、今日の更新は一際難しい命題について言及されていました。「無償の愛」ってなんなんすかね。冬優子ちゃんはわかるっすか?(芹沢あさひ)

そもそも「愛」がなんなのか、よくわからない性質をしているのに、その上「無償」という形容を与えているのだから余計にわからない。じゃあなんすか、「有償の愛」があるってことすか。わからん……。

そもそも(2回目)、「愛」それ自体が見返りを求めない性質を有するところがあるので、すなわち「無償」という性質も自ずから付随するのではないか。なればこそ、わざわざ「無償の愛」と呼ぶことは、それが多くの人にとって得難いものとして認識されていることの証左ではないだろうか(論理が飛躍してない?)。

そんな曖昧な考えを自分の中で巡らせていたら、上記の漫画では「無償」と「愛」は対極ではないか?という視点が提示されていた。なん……だと……。自分は芝崎典子さんの考えを全く理解していなかったことを思い知らされる。

要するに、「愛」、中でも「愛したいから愛す」という行為には、愛する対象がどうあろうと、自分の欲求を満たすだけなのだから、それは「無償」ではないのでは?ということらしい。

なんだかよくわからなくなってきた。「無償」「有償」の区別を、対価の発生の有無と定義するのなら、ただ「愛する」という行為は概ね「無償」である。精神的営みが大半を占める「愛」という概念は、対価を介在させることはおよそ困難だ。

恐らくは、「愛」を「愛する」と「愛される」に分けて考えることが必要なのだと思う。そして、「無償」とは後者にしか紐づかない。「愛する」とは、上記の漫画でも述べられている通り、詰まるところエゴでしかない。客体こそ必要だが、「愛する」という行為は自分から伸びる一方通行の矢印でしかなく、他者からの評価である「有償」「無償」という軸は相応しくない。「愛する」とは、何処までも本人の精神の中で完結する営みでしかないからだ。

対して、「愛される」には「無償」と「有償」の別があると考える。そして、「無償」が紐づいたとき、その「愛」は双方向となるのではないか。「愛する」と「愛される」の矢印が、奇跡的に一致する瞬間を、人は「無償の愛」と呼ぶのではないか。そんな思考はどうだろう。

でも「有償」の「愛される」ってなんだろう、って考えたときよくわからなくなってきたので、この考えは破綻しているような気もする。

自分もそうだけれど、きっと大抵の人は、人生には「愛」が必要だ、となんとなく考えているんじゃないかなあと思っている。でも、その正体をしかと掴んだ人は多くはないと思う。人には承認されること、ここにいてもいいと許されることが必要だ。そんな許しは必要ない、って言う人は、自分で自分を許すことができる人だから、やっぱり許しは必要なんだと思う(そういう人は、許しという言葉は使わない気もするけれど)。そして、その許しの究極の形が「愛」なのかな、とか思っている。それがあれば、生きていてもいいと思えるような。でもそれは、「愛する」なのだろうか、「愛される」なのだろうか。よくわからなくなってくる。

多分、そういう細かい理屈とかもすっ飛ばした問答無用の承認が「愛」なので、極論、それを自認できるのならなんでもいいのだと思う。それを見つけるまで、人は彷徨い続ける。きっと、いろいろな形の「愛」があるんだろうな、と思います。

とりあえず、上記の内容は関係ないですが、シャニ1stのBDを見て芝崎典子さんが思いの丈をぶつけるシーンを見るといいと思います。泣きます。


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