日記:弱気でいたい

スポーツ観戦に熱狂的な人ほど、応援したチームが負けたときにストレスを大きく感じるということがあるらしい。

これは4年ほど前の記事だけれど、しかし自分の周りにいるスポーツ好きの人の様子から、贔屓のチームが負けたときの機嫌の悪さを見るに、あながち間違いでもないのかなと思う。自分はスポーツを観戦するということが殆ど無いのでそうした感覚を実体験として味わうことはあまりないものの、それでも偶に日本代表を応援するようなことがあったりしたとき、負けてしまうとどうしても落ち込んでしまう。どちらかに「勝ってほしい」という期待が働いてしまうと、それがうまく成就しなかったときの落差は大きいものなのだと思う。

熱狂的になればなるほど、負けたときのストレスも大きい。

ふむふむ。


知人とオンラインで麻雀をしていまして。まあ、負けてしまいまして。

自分はそれほど麻雀に入れ込んでいないつもりなのだけれど(去年の春ごろにルールを覚えて、それから偶に遊んでいる程度)、それでも負けたときの気持ちの下がりようは大きい。大きい以上、自分は麻雀に対して熱狂的と言えるほど夢中になっているのだろうか。

負けを引きずるのは精神衛生上よろしくない。勝ちたいのならば、落ち込んでなんていないで、勝つための勉強をするなりすればよい。でも別にそこまでの熱意は存在していないのである。勝てたらそりゃ嬉しいけれど、そこまで熱心に取り組むつもりもあまりない。以前、知人に麻雀についていろいろと教えてもらっていた時期があったのだけれど、その教えを上手く活かすことができなくて、上手になろうという取り組みは結局続かなかった。

だからもっと勝ち負けを軽く捉えればいいのに、負けると自分の価値が否定されてしまったかのごときショックを受ける。勝てばもちろん嬉しいのだけれど、敗北時の精神のダメージを考えると、あまり割に合わない。

なまじ知識だけ増えてしまったせいで、負ける理由をいろいろと覚えてしまい、自分を責めるための材料も揃ってしまったのかもしれない。とはいえ、麻雀は運の要素も大きく、負けるときは負けるので、そのことをいちいち気に病んでしまうというのは、麻雀を遊びとしてとらえた際にはあまり適していない態度なのかなとも思う。

なのでもっとカジュアルに麻雀に臨むようにしたい……。どうせ勝てないし、くらいの弱気でいることにしたい。





福井県立図書館の利用者がうろ覚えで尋ねてきたタイトルをまとめたものが公式HPで見られるのだが、それが『100万回死んだねこ 覚え違いタイトル集』として書籍化されるらしい。この存在を知ったのは、上の記事内でも紹介されているカプリティオチャンネルの動画だった。HPを眺めていると、かなり面白い。語感が似ているだけで全く違う言葉になっていたり、意味は似ているのだけれどかなり妙な方向に飛躍していたりしている。


濁点がちゃんと残っているのに一人称が変化してしまっている。でもわかる。うろ覚えってこういう感じになる。


これも意味だけが残って全く別の言葉に変質してしまっている。これで候補を挙げられる司書さんがすごい。


登場人物名の記憶がジョジョに引っ張られている。実際の本にジョナサンは登場するがディオはいないらしい(一匹狼なのはリチャード)。


こういうシンプルな間違いがツボに入ってしまうとずっと笑ってしまう羽目になる(なった)。横文字って意味が入ってこないから、文字で読んだだけだと取り違えてしまうのはよくある……。


なぜダメを増やしてしまったのか。



うろ覚えの結果、単語そのものが変化してしまうとインターネットの検索には頼れない。今日の冒頭に貼ったスポーツの記事も、「スポーツ」「応援」「ストレス」の3単語でなんとか記憶にあった記事にたどり着けたからいいものの、少しでも単語を覚え間違っていれば永遠にたどり着けないということは珍しくない。あいまいな記憶の背景に隠された意味を拾いあげるのは、今のところ人間の洞察にしか果たせない仕事である。

でもその役割が機械にとって代わられる未来もそう遠くはないのかもしれない。それで人間の価値が損なわれるということはないけれど、そのときに人の仕事の意味合いはどのように変質していくのだろうか。そんなに急激には変わらないだろうけれど、それでも四半世紀も経てば価値観はかなり違うものになっている気がする。

昔はなんとなく受け入れられていたものが、現代では明確に否定されるようになったりしているのと同様に、今の価値観も少し先の未来では全く通用しないのかもしれない。その時代の流れについていくことはできるだろうか。自分の価値観はいつ「時代遅れ」になってしまうだろうか。それとももう成り果てているのかもしれない。

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