日記:あなたが何を思うのか

家にいる時間が増えて、友人と通話する機会が増えた。というかそれ以前はLINEで電話をかけて取り留めのない会話をするという経験がなかった。それは単に、自分に友人が少ないということなのだけれど。

対面で話すのと比べると、微妙なタイムラグがあって、うまく言葉が伝わらなかったりする。水の中で会話しているかのよう……とまではいかないけれど、なんとももどかしい想いを抱えながら言葉を紡ぐ。そしてその微妙な間が会話においては肝要で、自分の言葉に対してすぐさま相手のレスポンスが返ってこないと、それが通信上の制約であるとはわかっていても、言葉が伝わっていないのではないかという小さなストレスが心に堆積していく。少し気を遣うというか。

だから(さんざん言われていることではあるけれど)、現実での会話がオンライン通話にそのまま取って代わるということはなくて、両者はそれぞれ別物として考える方が良い。通話では、会話のターンが交代するのに微妙に時間がかかるので、会話のボールを持っている時間が長い方が良い気がする。そしてそれは、レスポンスの応酬で会話をアジャストしていくと言うことが難しいと言うことでもあって、だからこそオンライン通話では事前のトピック設定がより重要度を増す……のかもしれない。よくわからない。上で言ったことは全部適当です。


ところで自分は友人が少ない癖に人の話を聞くのが好きで、オンライン通話が友人間で開催されるといつも喜び勇んで参加する。大抵は誰かが誘うのを待っていて、自分から誘うことは殆どない。なんだか申し訳ないなと思ってしまうから。

自分が誘われた時はいつも嬉しいのだけれど、じゃあそれを自分が相手にしたところで、相手もそう思うとは限らないと思う。というか相手の気持ちがわかったことなんて一度もない。友人にはいつも自分と遊んでくれてありがとうと常々思う。いつか自分という存在が見限られてしまうのではないかという恐れを抱いている。そう考えてみると、自己と他者の非対称性というか、相手が自分のことを本当はどう思っているのかなんてついぞわからないまま、他者と関わって生きているのだなあと改めて感じる。


自分以外の人は読心能力を持っていて、自分が考えていることなんて全部見透かされているんじゃないかということを、幼いころよく考えていた。自分の嘘や企みなんてお見通しで、それをわかった上で自分に付き合ってくれているのではないか。誰かが自分に優しくしてくれるのは、相手が自分の目線に降りてきてくれているからなのではないか。みんなの手のひらの上で生かされているだけではないのか。そういうことをよく考えていた。多分、それほどまでに、自分に向き合ってくれる他者の気持ちがわからなかったためである。

相手が自分のことをどう思っているのかわからない。だからそれを知りたい。面と向かって「自分のことどう思ってる?」なんて、気恥ずかしさと怖さ(「お前のことなんて本当は面倒くさいと思ってるよ」とか言われたらどうしよう、といった怖さ)でいっぱいになってしまって聞くことができないし、その場で口にされる言葉は自分に気を遣って出された言葉かもしれない。

なので、誰かと誰かが自分のことについて話している内容を聞きたい。全部聞きたい。しかし、自分のいない場所での自分への言及が悪印象でしかなかった場合、それも耐えられない。やはり怖い。本当のことは知らない方がいいかもしれない。いまも自分の周りにいてくれる友人に感謝をしつつ、その本当の気持ちは知らないままでお互いに心地よい距離を維持していくのが最善かもしれない。


なんというか、そういう遠慮のような気持ちもあって、自分から誰かを誘うということは殆どない。誘いが来る限りにおいては、少なくともその程度には相手のそばにいることを許されているのだと思えるから。そしてその選択権は常に相手に委ねたい。次の一回で自分が相手に見限られるかもしれないからだ。自分から誘ってしまうと、その構図が崩れてしまう。

しかし、相手に誘われるということは一つの承認である。誘われるたびに、それは「あなたと一緒にいてもいい」という承認を与えられる。では、良い友人関係とは、どちらかが一方的に承認を与えるのではなく、相互に承認を与え合うことこそ重要なのではないか。誘われるのをただ待つというのは、その相互の関係性を欠いていることに他ならないのではないか。

もちろん、友人の関係性は各ケースにおいて様々であるとは思うけれども、そう考えると偶には自分から誘いをかけるということも行うべきという気がしてくる。自分が誘われて嬉しいように、相手も誘われてきっと嬉しいのだと思うから。……いや、でも相手の気持ちはわからないからな……自分に誘われても嫌だったらどうしよう……(思考がループする)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?