日記:世界をつくるもの

最近、アニメやゲームのライブによく足を運んでいる。最初は「アイドルマスターシャイニーカラーズ」という作品にハマってライブにも行くようになり、バンナムフェス2ndという多くの作品が集うライブに行ってみたらとても楽しくて、少しずつ他の作品のライブにも応募するようになった。友人を誘ったり逆に誘われたりするようにもなってしまったので、いよいよ歯止めが効かなくなりつつある。昨日は2つのライブの抽選を申し込んでいた。このままだと危ないかもしれない。というかもうすでに遅いのかもしれない。


ライブなどのイベントは基本的に再現不可能性を有している。同じライブは二度とありえないし、映像としての記録が残っていたとしてもそれはあくまで「再生」されるもので、会場における熱狂を完全に再現できるわけではない。音響が体の芯を揺らす衝撃とか、たくさんの光に照らされるステージの眩しさとか、そういう身体的な感覚も含めて1つの体験を成している。

それが再現されえない一度きりのものだから、ライブに行きたくなるのかもしれない。その場限りというプレミアム。期間限定といわれたら心惹かれるし、会場限定といわれたら足を運びたくたる。そういう心理。

そういう一回性が熱狂の正体なのだとしたら、いつか当たり前になって特別さが薄れたときに、足が遠のくのかもしれない。いつまでもライブが特別であり続けるには、ライブという存在が特別でなのではなく、ライブのひとつひとつがそれぞれに特別でなければならない。そして、ライブとはもともとそういうものだと思う。


昔、自分は一度きりの存在が苦手だった。すべてが再現可能であってほしい。機会を失えば手に入らなくなってしまう幸福なのであれば、逃したときに悔いることしかできない。それが許せなかった。人生とは挽回可能なものであってほしかった。

友人に、バンドのライブによく行くという人がいたので、どうしてライブに行くのかと尋ねたことがある。友人は「ライブに行くことで楽曲に新たな表情や発見がある」と言っていた。確かにライブでの演奏には、音源とは異なる表現がある。歌であれば音程よりも勢いを優先したり、楽器であればアレンジが加わったり。それが聴けるのはなによりの醍醐味である。そう思いつつも、心では納得していなかった。たぶん体験していなかったからだ。

それを体感したのは、シャニマスのライブに何度か足を運んだ頃のことだった。楽曲もだいぶ覚えてきて耳に馴染んでいたが、それでも披露されるパフォーマンスは新鮮な表情を見せるように思えた。歌への力の込め方が違う。ステージ演出が違う。そもそも歌っているメンバーも違うことがある。多くの人がライブに関わっていて、各所に工夫を凝らそうとしているからこそ、同じ楽曲でも見え方がまるで違ってくる。音源と違うのもそうだし、ライブごとでも変わってくる。

ステージ上の非言語的な表現を、観客は全身で読み取ろうとする。作り出されるのは1つの世界ですらある。それを感じるからこそ、ライブでの体験は別世界のように思える。ライブに行くたびに違う世界が見える。それはとても楽しい旅で、その夢はしばらく自分の心に棲みつづけるような気がしている。

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