日記:日記の機能
色々と慌ただしくて、休日だけど電車の中で日記を書いている。なんで?
予定が多いのはいいことだとして、問題なのはやりたいことがそれ以上に積み上がっていることだ。文学フリマで買った本もまだ読み切れていない。
文学フリマに行ったとき(あと『犬王』を観にいったとき)の日記がそこそこ読まれているようで(自分の中では♡が2桁いったら読まれているほう)、それなのに本を読めていないのは罪悪感を覚える。知らずプレッシャーをかけられているような。来週はそこそこ余裕があるのではないかという気がするので読みたい。あとシャニマスのノクチルイベントのシナリオも読めていないので読みたい。あと知人から貰った本も読みたい。あと最近買って積んでいる本とか、昔買って積んだままの本とか、評判の本とか、不朽の名作とか、仕事に活かす本とか、そういうのを全部読みたいのだが時間も余力もない。本だけではなくてアニメや映画やドラマも観たいし、音楽も聴きたいし、ライブにも行ってみたいし、ゲームも遊びたいし、友人とも会いたいし、触れたことがない新しいこともしてみたい。そんな余裕があるわけもない。
だから大事なのは時間をうまく使うことと、それでも足りないから優先順位をつけて収まりきらないものは諦めることだ。それはわかっているし、日記にも同じようなことを何度も書いているけれど、いつまでも状況が変わらないのは、その対策にどこか無理があるからだ。せっかくなら隙間時間をうまく使うのではなく、時間に余裕があるときに好きなことと向き合いたいし、やりたいことを諦められるほど利口でもない。高望みを捨てることができなくて、それでもただ嘆いているだけだから何も変わらない。しかし嘆いている暇なんてなくて、少しでも現実を押し上げるために動いていくことでしか理想が叶うことはない。
そういうことを振り返り内省する時間としてこの日記は機能していて、だから日記を書くようになってから多少は行動することへの精神的な摩擦係数が小さくなったように感じる。慌ただしいと感じるのは、とりあえずやりたいこととやらなければならないことで日常を埋め尽くしているからで、それを思い定めるための時間こそ、日記を書いている時間にほかならないのである。だから、日常の出来事というよりは個人的な思考の整理をしていることが多い日記になってはいると思う。日記を書こうと思い立ったときにはそんなことを考えていたわけではないが、今のところはそんな立ち位置として自分の日常の一部に組み込まれている。
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